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さすらいの佛教語
回 さすらいの佛教語
 仏教語の多くは、さすらうことで世間に馴染み、それゆえ世間の垢がついて変質もした。これから毎月、そんな言葉のさすらいぶりをご紹介したい。
 皮肉といえば、誰でもときどきは言うかもしれない。物事を斜めに見て、そこに悪意や否定的な感情が宿った見解を、現在ではそう呼ぶ。
 しかし本来は、皮肉は骨髄に対するもの。悪意の有無にかかわらず、仏教の根本義に照らした際に、あまりに枝葉末節で皮相な見方を、「皮肉の見」というのである。
 ところでいったい、人間はなぜに皮肉など言うのだろう。
 むろん本来の意味での皮肉ならば、これは仕方がない。智慧が足りなければ、皮肉の見になってしまう道理である。そうではなく、なぜ人は、わざわざ見え透いた小さな攻撃を、他人にするのか、ということだ。
 思わず攻撃と書いてしまったが、皮肉とはジャブのようなものだろう。つまり近代人にとっての全ての会話には勝負の雰囲気があり、ジャブを放って相手を威嚇するのが皮肉なのかもしれない。
 それなら、肉を切らせて骨を断つ、と言いたいところだが、それでは同じ勝負の土俵に上がってしまう。
 幼かった頃には、誰も皮肉など言わなかった。「おやつ食べたら早く勉強しなさい」と言われて、「うるさいなぁ」とは言えても、「お母さんはちゃんと勉強したからお父さんと結婚できたんだね」などと皮肉が言えるのは幾つぐらいだろう?
 え? 皮肉に聞こえない? あ、そんな幸せな境遇の方もいるんですね。失礼しました。
 ともあれ、皮肉で済ますのは、現在の薄っぺらな自分を守ろうという姿勢である。
 とりあえずジャブでも、優勢な気分になりたいのだ。
 次々と展開していく新しい自己に意識を集中しつづける。それが仏教的智慧であってみれば、皮肉など言っているヒマはない。しかし世の中には、ときどき皮肉で発憤する人がいたりするから、複雑だ。まぁ皮肉を通らなければ骨髄には至らないのだから、仕方ないのかもしれない。

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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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