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「観念しろ」といえば、今では「諦めろ」という意味で使う。仏教語としての「あきらめる」は明らかにする意味。「諦」も、本来は明らかにされた真理という意味である。しかし「観念しろ」とはそんな高尚なことではなく、どうもギブアップという意味になってしまった。観念は、それほどに難しいことだったのだろうか。
元々これは「観想し、念じること」。親鸞の教説をまとめた『歎異抄』には「観念成就のさとり」という表現がでてくる。また法然の『一枚起請文』には「もろこし(唐)わがてう(朝)に、もろもろの智者たちのさた(沙汰)し申さるる、観念の念にも非ず」とあるが、これこそ口称念仏。だから観念の念というのは、声はださず、脳裡に観想して念じる瞑想のようなもの。口にだして称えるよりは、やはりそっちのほうが難しいのだろう。しかし本来の念仏とは、西の夕日を視ながら、その彼方に浄土を観想する、観念することだったのである。
たしかにそうしたイマジネーションを持続することが難しいから、観念を諦めてしまったのかもしれない。観念しようとすると、すぐ諦めてしまう。故に観念=諦める、に、なった?
考えてみれば、観念も諦めるも、同じように意味が変質している。つまり阿弥陀仏をはっきり観想して念じることは、とうとう観念するほどに難しかったのだろう。
観念はまた、明治以後は哲学用語アイデアリズムの訳語としても使われるようになった。アイデアリズムとは、むろんプラトンのイデアに発する言葉だが、はっきりしているのは、そこには一切の具体がないこと。マルクスは、唯物論以外の哲学をすべて観念論とみなした。
本来、観想し念じるヴィジョンは、明らかに具体であった。しかしそれが難しいから観念し、明らめるのも大変なのでギブアップしているうちに、観念そのものも全く具体とは反対の意味になり、しかもギブアップになってしまったのだろう。さすらっているうちにこれほど変質した言葉も珍しい。観念だけになんだか観念的になってしまったが、そういう私は、やっぱり観念的な現代人だろうか?
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