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さすらいの佛教語
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 なんともややこしい字面だが、この文字にあまり意味はない。本来はサンスクリットの「サハー」、大地の意味だったが、それが仏教語としては「この世」ということになった。
 たとえば『法華経』の「如来寿量品」などのように、ふつう「娑婆」は「浄土」と対をなす言葉として使われる。この場合は語根をサフ(=耐え忍ぶ)と考えており、娑婆は「忍土」とも訳される。ややこしいことに耐え忍ぶのだから、字面がややこしいのも納得できるだろう。
 しかし一方で、「サハー」には自由な世界という意味もある。「娑婆の飯が食べたい」なんて、高倉健が刑務所のなかで呟いたりするのはその意味だ。軍隊や刑務所など、制約の多すぎるところにいると、ふつうの「この世」が自由に思えるのだろう。
 どうも後者の意味は、修行を嫌がる気分のなかから発生したような気がする。私なども道場にいるとき、「娑婆では炬燵もあるし、あったかいだろうなぁ」とか「娑婆ではカツオの刺身なんか食べられて、いいなぁ」などと不埒なことを考えたものだった。
 思えばこの認識のブレは、どんな世界にいても発生する。要するに人は、自分のいる場所が不自由でややこしいと思うからである。
 なぜか。むろん、自分そのものがややこしいからだろう。
 『今昔物語』には「此より東方に無量無辺の仏土を過て世界あり、娑婆世界と云う」とある。あれ? 仏土のこちらも娑婆、向こうも娑婆?
 そうなのだ。「丁度いい」のが極楽、「度が過ぎたら」忍土が出現するのである。
しかも度を過ごしたのはすべて自分のせいだ。
 思い返すと、道場の暮らしも今となれば極楽だったように感じる。度を越した睡眠不足や畑仕事なども、みんながしているから度を越しているとは思わなかった。かえって今のほうが、一人で勝手気ままにしている分、度を越しやすい。
 謡曲『葵上』には「娑婆電光の境」と出てくる。結局この世の住み心地を決めるのは心だから、アッという間に自由になったり不自由になったりするのである。
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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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