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さすらいの佛教語
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 最近は、ヒマですることがないと退屈するようだ。しかし元々はこの言葉、悟りをめざす仏教の求道者の、志が退(しりぞ)いて屈することを意味した。だから「仏心に退屈なし」(『反故集』)と云われるように、退屈するなどモッテノホカなのである。
 たしかに昔から、修行に退屈する人は多かった。たいていひと月以内に、退屈して逃げだすのである。先輩のなかには、あまりの厳しさに退屈し、高い塀を夜中に飛び越えた人がいた。しかし塀の天辺から飛び降りたとたん、心ばかりか体までタイクツ(体屈)してしまった。つまり骨折である。お陰でまっすぐ入院し、否応なく道場に戻ってからは退屈せずに修行が続けられたようだ。
 昔から、三退屈と云われる代表的退屈がある。それは1菩提広大屈(ぼだいこうだいくつ)2万行難修屈(まんぎょうなんしゅうくつ)3転依難証屈(てんねなんしょうくつ)だが、およその意味は見当もつくだろう。1は悟りがあまりに広大なのに呆れて退屈し、2は修行の果てしなさに退屈し、3は雑に染まった心を清浄に転ずるのがあまりに難しくて退屈するというのである。
 本来の退屈は、今の言葉にするなら意気消沈、なんていう感じかもしれない。
 『太平記』などでは、まだ本来の使い方が見える。「将軍も早(はや)退屈の体(てい)見へ給(たまひ)ける処へ」というのは、別にやることがなくてヒマなのではなく、戦意喪失しているのである。
 それにしても、道場などは戦場と違い、去る者は追わない。だから退屈して逃げだしてしまうと、現代的な意味でもそのうち退屈しはじめるのかもしれない。
 『旗本退屈男』という映画があったが、あれなども、仕官の志が退屈し、そのうち退屈しのぎに庶民のなかで武士の心意気を見せるような話ではなかっただろうか。
 仏道に終わりがないとすれば、我々は永久に退屈してはいけないわけだが、これは大変なことだ。
 しかし退屈すればそのうち進伸するのが自然の摂理。私など、そうして尺取り虫のように前進するしかないような気がしている。
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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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