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さすらいの佛教語
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 たぶん志村けんが「だ〜いじょ〜ぶだ〜」と流行らせるずっと以前から、大丈夫は「ノープロブレム」の意味で使われてきた。本来は偉大な人、ひいては菩薩さえ意味したことを思うと、この大丈夫という言葉もずいぶんさすらい、そして落ちぶれてしまった。
 丈夫はサンスクリットのプルシャの訳語。プルシャとは、男を意味する。男の特徴からか、やがて丈夫は堅くてしっかりしている意味に使われるようになる。当然、大丈夫の語源もサンスクリットで、マハー・プルシャ。これが偉大な人、ひいては菩薩を意味するようになったのである。
 偉丈夫、女丈夫などという使い方は、むしろ本来に近い。大丈夫ばかりがこれほど変質してしまったのは、もしかすると大丈夫の鷹揚で寛大な心のせいだろうか。「まあ、いいでしょう」「あ、OKです」なんて言ってるうちに、大丈夫はOKになってしまった?
 もともと、プルシャには男という意味のほかに、宇宙の根源としての根本物質、また実体的自我といった意味もある。仏教的認識とは懸け離れているが、たしかにそういう認識は、男と馴染みやすい。堅固なような、脆いような、それが丈夫の心根なのかもしれない。
 『阿含経(あごんきょう)』に、女は怒るを以て力となす、子供は泣くを以て力となす、沙門は忍辱(にんにく)を以て力となす、とあるが、ふつうの丈夫はどうなのだろう。
 『孟子』には、志を得れば民と之(これ)に由(よ)り、志を得ざれば独り其の道を行なう。富貴も淫(いん)する能(あた)わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず、此之(これこれ)を、大丈夫と謂(い)う、とある。つまり、お金でも貧しさでも脅しでも変節しない堅固な志の持ち主のことだが、この大丈夫という言葉、たぶん仏教流入以前から中国にもあったのだろう。それがマハー・プルシャの訳語に使われたに違いない。
 鎌倉時代、中国の天目山に留学して禅を学んだ寂室元光(じゃくしつげんこう)は、「参禅は実に大丈夫の事」と書き残している。そうか、何度入室しても許されない、しかし何度でも挑み続ける雲水の心ばえは、もしや「だ〜いじょ〜ぶだ〜」の楽観性に支えられている? そうしてくじけない人こそ"大丈夫"なのだろうか。
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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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