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石油の利権を争って戦争まで起こる世の中だが、照明用の菜種油も昔から塩と共に貴重品だった。「油を売る」姿が悠長に見え、どこで油売ってきたんだ、などと揶揄されるのも、柄杓に一滴も残さないようにどの売り子も心がけたからだろう。買い手の真剣な眼差しも想像され、悠長に見えてもいい加減に切り上げるわけにはいかなかったのである。
大切なものであったのはどこの国でも同じかもしれないが、『涅槃経』(ねはんぎょう)巻二十にはちょっと極端な話が載っている。王様が家臣に油の入った鉢を持たせ、それを運ぶあいだ一滴でもこぼせばお前の命はないと、背後から刀を持った別の家臣に歩かせたというのである。
幸い、彼は一滴もこぼさなかったから、これが「油断」のない模範になったという説。またほかに、お寺などで本尊さまへの燈明が切れることを「油断」と云ったともされる。
お寺にはたいてい、常夜燈と呼ばれる燈明があって一日中点いている。今はどこでも電灯だと思うが、昔はこれに菜種油が使われていた。二宮金次郎のエピソードを待つまでもなく、油という貴重品を常時燃やすというのは大変な贅沢。それほどに、燈明をあげるという供養が重視されていたということだろう。だからこそ、貧者の一燈などという言葉も生まれたのである。
燈明を絶やさないためには経済力も必要になるが、それがあったとしても、ついうっかり、思わず知らず、ということが起こり得る。油をこぼす意味だとすれば尚更この不注意が問題だろう。
しかし一定の注意力を保つのはなかなかに困難。だからこそ油断大敵と云われるのだろう。いわばどんな敵よりも手強いのが、自分の心の散漫さだと云うのである。
心は本来ころころと動きまわるもの。それを総合して持(たも)つのが「総持」、つまり「禅定」ということだ。これは仏教が推奨した生活上の技術と云ってもいいだろう。この禅定の途切れ目、油の切れ目から、魔も差す。油断すると魔が差すから、油断するなと云うのである。
今の中国では「がんばる」ことを「加油」と云うが、それはつまり、油が生命力を意味するということか……。
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