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さすらいの佛教語
12回 さすらいの佛教語
 だいたい「うろうろ」してるのは怪しい奴に決まっている。怪しくない場合でも、まぁ頼りにならないことは確かだろう。
 漢語の「右往左往」も同じようなニュアンスが漂う。似た言葉で、「東奔西走」という言葉があるが、この場合は目的も手段もちゃんと見えたうえで動いている。ただちょっと忙しすぎるのである。しかし「右往左往」のほうは、目的はあるのだろうが、そのためにどう動いてどこへ行ったらいいのか判らない。右なのか左なのかもはっきりせず、「うろうろ」しているのだ。
 この「うろうろ」、元々は「有漏」から来ている。「漏」とは煩悩のこと。煩悩に溢れた凡夫の状態を「有漏」といい、そういう「漏れ」のなくなった悟りの状態を「無漏」と云う。
 一休宗純に有名な歌がある。

有漏路より無漏路へ帰る一と休み雨降らば降れ風吹かば吹け

 今はこの迷いの世界(有漏路)にいるが、これも彼岸(無漏路)に行き着くまでの一と休みのようなもの。そうであるならいろいろあったほうが面白い。どんな困難でも受けて立とうじゃないか、という感じだろうか。
 そうと覚悟が決まれば「うろうろ」することもあるまい。なぜなら、煩悩の最たるものは「貪欲」。自分に好都合なことばかり望むから、不都合を避けて「うろうろ」することになる。あるいは虫のいいほうばかり向くから「うろうろ」するのだ。風雨も厭わず、あらゆる困難も自分を豊かに変化させる修行と心得れば、そのまま真っ直ぐ行けばいいのである。
 それにしても日本語の擬態語は豊かだ。「じたばた」と云っただけで苦しさまで伝わるし、「へらへら」には無定見まで感じられる。
 それじゃあ「うろうろ」じゃなくどうすればいいのか。「ふらふら」でも頼りないし、「がんがん」は強引そうだ。
 昔、スタスタ小僧というのがいたらしい。どこへでもスタスタ行って、スタスタこなして帰ってくる。それが理想だろうか。
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