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「ないしょ ないしょ ないしょの話は あのねのね」と歌われる。そのことからも、内緒話はすぐに人に話されてしまうことがわかる。あれはじつに社会教育になる歌である。
しかし本来「ないしょ」というのは、「内証」という密教用語が変化した言葉で、「内緒」や「内所」というのは当て字である。
他者が知り得ない「さとり」の世界を、秘密といい、内証といった。なぜ知り得ないのか。それは、言葉で表現できないからである。
しかしむろん、同じ境地に達すれば、それは言葉にできなくとも通じあってしまう。『ないしょ話』という歌も、「にこにこ にっこり ね 母ちゃん」と続く。本当は、この「にっこり」でしか通じないものが「内証」なのである。
ところが歌はその後、「お耳へ こっそり あのねのね/坊やの おねがい きいてよね」となる。なんだ、話してるんじゃないか。要するにここでは、母ちゃんと坊やの二人だけしか知らない話を「ないしょ」と呼んでいるのだ。ずいぶんさすらったものである。
言葉にできない「さとり」の世界が本来の「内証」だと申し上げた。なぜ言葉にできないのだろう。
それは簡単に云えば、「さとり」は全体性の問題であり、言葉は常に全体性を分断する道具だからである。もっと云えば、言葉を発する者も全体性の内部にいて全体性に影響を与えている。そこにはいわば、客観的な事実など存在しないのである。体験的に感じることはできるが、それは言葉にした途端に他人事になってしまう。「さとり」は常に体験的な真実だということだろう。
内証はずいぶん変化し、後には身内や家内、暮らし向きなどの意味にも使われる。
「御亭主はまだか。御内証は」という具合である。また金まわりの意味に使われた例もあるようだ。もしかして、「ないしょ」と云いながら話すから、意味が変質しても知られにくかったのだろうか。
どうも『ないしょ話』の坊やは明日の日曜、母ちゃんに何かを買ってほしいようなのだが、本当の内証はもっともっと素晴らしい賜り物のはずである。
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