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工夫は「くふう」と読む。現代の中国語では「有工夫○?」(工夫はありますか?)とは「ヒマですか」の意味。やはりヒマでないと、工夫もできないと考えているのかもしれない。
『碧巌録方語録』には、「もと職人の細工をする手間を云なり、故にテマと訳し、またヒマと訳す」とある。要するにヒマの意味も当初からあったことがこれで判るわけだが、一言で「テマヒマ」と云うように、この両者はお互いに支え合っているのだろう。
仏教的日常語の多くがサンスクリット由来であるのに対し、これは明らかに中国発の言葉、もっと云えば禅宗由来の言葉だと云えるだろう。基本的には「思惟すること」、または「精進努力すること」。本来は坐禅を通して熟考のうえ算段することを云う。
しかし果たして、坐禅がそういった個別の問題を考える時間であっていいのだろうか。なるほど確かに、道場での坐禅の時間は長いから、いろんなことを考える。しかしそれは已むを得ず考えてしまうのであって、考えることが望ましいわけではない。
ただ、じっと坐っていると思わぬ角度から考えられることも確かで、これを利用しない手はないようにも思える。いわばゴミ焼却場に温泉を作るようなもので、工夫とは、何も考えない時間がもたらす余禄のようなものだろうか。だとすれば、やはりゴミとかヒマが大事ということなのかもしれない。
しかし人は、うまく工夫ができてしまうと、そのヒマに恩義を感じることは少ない。ヒマだったから名案が浮かんだとは、誰も思いたくはないのだろう。いったん温泉に入れば、その気分がゴミの熱量でもたらされたとは思いたくないのと同じである。
「心地を蹈まずして霊台に登り、工夫を仮らずして覚蔵を開く」とは『一遍上人語録』の言葉だが、どうも仏教では、工夫という自力の痕跡をあまり好まないのである。それは自力宗と呼ばれる禅宗でも同じで、工夫せよ工夫せよ、と云うくせに、最後には「もともと具わっていたじゃないか」と認識する。テマもヒマも水に流してしまうのが、最も上等な工夫ということなのかもしれない。つまり工夫が足りないと、工夫が見えるのである。
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