|
最近では擬音語として、戸の建てつけが悪い状態などを「がたぴし」と云う。しかしこの言葉、本来は仏教語としての「我他彼此(がたひし)」に由来する。「我」が生ずることで「他」が生じ、「彼(かれ)」と「此(これ)」もいわば「我」の分別によって区別されるから、物事がうまく噛み合わず、そのために動きがにぶくなって騒々しくなる、そんな様子の全てが、この言葉で表されるのである。「我他彼此見(がたひしのけん)」などと云う。
仏教が説く「無我」においては、一切が平和的に融合している。
しかし我々にはいつしか「我」が生じる。「我」を生じさせる力を、インドではサンスカーラ(行)と呼んだが、これは母親の胎内で芽生えた最初の意識である「識」に、すでに宿っていると考えられた。「苦」を生みだすシステムとして考えられた十二因縁では、「識」のまえに「行」が置かれる。そのまえに「無明」が置かれるのは、つまり「我」の芽とも云える「行」が、どうして発生するのか分からない(無明)ということだ。
わけが分からないもの(無明)を相手にしてもわけが分からないから、お釈迦さまはひとまず実践目標を「行の滅尽」に置いた。これによって世界の「我他彼此」が、根本的に解消されると考えたのである。
このことに気づき、「我」の解消のために瞑想を実践して得られた状態こそが、仏教的智慧としての「般若」だと云っても過言ではない。
思えばこの言葉から、「がたがたする」とか「がたがくる」という表現も生まれた。『義経記』にもすでに「がたりぴしりとし給ふこそ見ぐるしけれ」などと書かれる。いずれも、本来一体であったものが「我見」によって対立的に見え、平安が失われた状態のことだ。
それにしても、建てつけの悪い戸は、たしかに「ガタ、ピシ」と聞こえる。仏教語がさすらって擬音語に変じたと最初に書いたが、あるいは当初から、擬音語からの連想があったのだろうか。謎である。
「そんな細かいこと、がたがたぬかすんじゃねえよ」。我の強い人ほどそんなことを云う。宝珠が盗賊の手に渡ってしまったようなものだ。
|