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さすらいの佛教語
16回 さすらいの佛教語
 「めっぽう強い」というように、今では「考えられないほど」という意味の副詞として使われることが多い。つまり、なぜこんなに強いのか、その法則性が見いだせないから、滅法なのである。
 「めくら滅法」という表現には、「め」を重ねる語呂合わせの感覚も感じられる。そのやり方が、目あきには考えられないほど意外性に富み、やはり法則性が見いだせないから、常識的な対処では通用しないということなのだろう。むろんめくら滅法が成功するとは限らないが、少なくとも敵にこの手を使われた場合、防御する「法」はない。
 ここから判るのは、滅法こそ我々の常識や理解を超えた大いなる力と見なされているらしいことである。
 仏教でいう法とは、主に「縁起」あるいは「因縁」の法である。もともとお釈迦さまは、これが我々の理性によって把握しきれるとは一言もおっしゃっていない。むしろこれは合理的に把握できない共時性をも含んだ法則であり、瞑想のうちに直観するしかないはずだった。
 しかし法と呼ばれてしまうと、どうも我々は理解できるものと錯覚してしまう。そのため、やがて合理的に理解できる「有為法」と、それでは理解しようのない「無為法」が区別されることになる。本来は、この無為法のことを滅法と云った。
 いろは歌にもあるが、「有為の奥山」を越えれば無為自然の世界。それゆえ、滅法は涅槃の世界を意味することもある。
 謡曲「道成寺」には「しかるに生は滅法の始め、終(つい)に寂滅をもって楽しみとす」とある。ここでは生が、滅法であるから楽しみではなく、苦だと認識されているようだ。
 しかし生は、法則性がよくわからないからこそ楽しいとも云えるのではないだろうか。先が見えないと安心できない人が最近は多いようだが、じつは先を見たつもりの予断と現実の差が、人間に「苦」をもたらすのである。
 人生は本来めっぽうである。そう思っていれば「めっぽう苦しい」なんてことはあり得ない。浄瑠璃『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)』には「所構(かまわ)ぬめっぽう人(じん)」というのが登場するが、これは常識人を心配はさせるけれど、本人はいたって楽しくて自由なのである。
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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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