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「ふしだら」といえば、主に男女関係に「だらしない」ことだが、この「だらしない」と「ふしだら」、なんだか似ているような気がする。それもそのはずで、この二つは仏教語にもよく見かける逆さ言葉の関係にある。「不しだら」と書けば解りやすいだろう。この「しだら」を意味的にも反転させた言葉が「だらし」なのである。
「だらし」ないからといって、必ずしも「しだら」がある意味にはならない。それは例えば、「いたいけな」と「いとけない」、あるいは「せわしい」と「せわしない」の関係を見ても解るだろう。要するに「不しだら」と「だらしない」は、だいたい似たような意味になる。
それでは肝腎の「しだら」とは、いったい何か。これがもともとは梵語の「スートラ」だから、ちょっと驚く。
スートラは漢字で「修多羅」と表記され、本来はネックレスやレイなどを貫く糸を意味する。これが中国では織物の縦糸を意味する「経」と訳された。狭義には、細かな生活規則である律とは区別されるが、ここで「しだら(修多羅)」が意味するのは、双方を含めた生活上の筋や規則正しさのことだろう。不修多羅とは、そのように律するもののない在り方、多羅修ないというのも同様の意味になる。「ふしだら」が主に男女関係に限って使われるのは、さすらいの挙げ句に自分だけの活きる場所を見出したのだろう。原義にさほどの違いはない。
逆さ言葉では、ほかに「坊主等」を逆さにした「ずぼら」がよく知られる。つまり坊主にあるまじき人々「主坊等」のことだ。
どうも坊主は「ずぼら」もいけないし「だらしない」のも許されない。「ふしだら」などモッテノホカということのようだ。
こういったプレッシャーに反発したのだろうか。お寺生まれの植木等さんはクレイジー・キャッツと共に「スーダラ節」を歌った。作詞は青島幸男氏だが、「ちょいと一杯のつもりで飲んで/いつのまにやら梯子酒〜」歌のタイトルも含め、これはスートラがさすらっていく様子を「スイスイスーダラダッタ」とスキャットで示したのではないだろうか。
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