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日本人の女性には、よく三千子さんとか三千代さんという名前をみかける。
どうして三千なのか、といえば、やはり仏教の三千世界、正確には三千大千世界から来ていると思うしかないだろう。
仏教の世界観では、中央に須弥山(しゅみせん)という山が聳え、この山を巡って、日月星辰、四大洲、四大海、そして六天などが配される。これが一世界で、その千倍が小千世界、そのまた千倍、つまり一世界の百万倍が中千世界、その千倍、つまり十億「一世界」を大千世界と呼ぶ。
だいたい、一世界でさえ地球から宇宙への眼差しも含むのだから、その十億倍など見当もつかない。見当もつかないほど大いなる女性になってほしいと、親は「三千子」や「三千代」とつけたのだろう。むろん「三千男」や「三千蔵」だってかまわない。
神道の八百万(やおよろず)の場合、そのすべてに名前があるわけじゃないが、仏教はこの三千世界のそれぞれを統括する三千仏に名前をつけてしまう。この辺が、仏教の「まことしやかさ」と云えるだろう。名前をつけた途端それは実在性を感じさせ、方便ではあっても、現実的になってくる。
天台宗では三千仏礼拝という苦しい行があるが、これも名前があるからこそ続けられるのだろう。
うちのお寺にも一幅、三千仏の名前を記した掛け軸がある。一仏書いては香を焚き、礼拝しながら書き綴ったものだが、十二月八日から十三日まで、五日以上かかっている。これは大分県のお寺の和尚が、自分の弟子を東国の寺に向かわせるに当たり、その無事を念じて書き上げたものだ。軸の長さがニメートルほどもあるから、おそらく無事こちらに着いてから表装したのだろう。
三千の仏とは、自分の外側の大千世界を司っているはずだが、じつは自分の内面の時間の広がりでもある。過去千仏、現在千仏、未来千仏、つまりそれは集合的無意識も含んだ心の運動範囲ということだ。
方便と知りつつ三千仏を念じているうちはいいが、これらの多くを守護霊や地縛霊などに任せるようになると仏教ではない。三千子さん、ご用心、ご用心。
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