江戸の昔、「慳貪屋」と呼ばれる店があった。主に酒やうどん、蕎麦、飯などを一杯ずつ盛り切りにして売る店で、今で云えば一膳飯屋。こういう店では、盛り切りの商品を渡してしまうと商売が終わったように感じたのだろう。どうにも愛想がなく、態度が悪かったらしい。だからこそ仏教語の「慳貪」をつけて、「慳貪屋」と陰で呼んだのである。
「慳貪」とは物惜しみして貪ること。いわば人間の三毒と呼ばれる「貪・瞋・痴」の筆頭である。「貝」つまり財物に蓋をして出し惜しむのが「貪」だが、こういう商売が続くはずもなく、やがてその態度は「つっけんどん」だと非難され、自ずから家運の衰退を招き、「慳貪くずれ」だと嘲笑されたらしい。
突っ慳貪はむろん「慳貪」に接頭語がついたわけだが、突っ「つく」とか突き「飛ばす」などにも共通するとげとげしさ、不親切でせわしない様子が目に浮かぶ。結局、自分の目先の利ばかりを追うからそういう態度になってしまうのだろう。
「貪」に似た文字に「貧」があるが、こちらは貝(財)を「分」けるのだから全く違う状況である。皆に分けた結果「乏」しくなってしまうのが「貧乏」だから、これはむしろ自慢してもいいくらいだ。
道元禅師は、仏道修行をしたいなら、まずこの「貧」を学ぶべきだとおっしゃっている。
稼いだ財を皆に分けていれば一旦は貧乏になるものの、その気持ちを誰もが汲み取り、やがてどうしようもなく富んでくることになる。
逆に、手許の財にしがみつき、我利我利物惜しみして「つっけんどん」にしていると、結局は手許の財も離れてゆき、「慳貪くずれ」という惨めな状態になってしまうのである。
いわゆる「つっけんどん」な態度が、必ずしも財を求める気分とは限らないこともある。しかしその場合でも、時間を惜しみ、てまひまや慈悲を惜しんでいるのは確かだろう。
ものを惜しめば餓鬼道に堕ちると云われる。特定の人にだけは親切、というのも間違いなく餓鬼道行きだから、ご注意いただきたい。 |