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さすらいの佛教語
27回 さすらいの佛教語
 あまのじゃくは、民間説話「うりこひめ」の中にも登場する。要するに、わざと人の言葉に逆らい、片意地を張る者のことだが、これほど厄介な存在はいないような気がする。
 本来は「天の邪鬼」と書く。四天王などの足下に、踏みつけられている姿を見かけた方もあるかと思う。ご本尊を守るために東西南北に配されている守護神が四天王だが、その四天王が手こずっているのだから相当に厄介である。
 たとえば彼のためを思い、右へ行ったほうがいいよと忠告しても、彼はそれを聞くと逆に左へ行こうとする。そんな相手にはどうすればいいのだろう。
 じつは簡単である。そうしてほしいと思う逆のことを、初めから云えばいい。勉強してほしければ遊びなさいと云う。帰ってきてほしければ帰ってくるなと云う。北に行ってほしいなら南に行けと云う。
 なんだか昔の頑固親父にもこの「あまのじゃく」タイプは居たように思うが、反対のことをすると分かっているのだから、最初から逆のことを云ってしまえばいいではないか。
 ところがこれが難しい。我々は言葉をそう気軽に使える生き物ではないし、まして四天王は自らを正しいと思い込んでいる。性急に、正義の意識であまのじゃくを踏みつけるのである。
 昔は「死んじまえ、ばかやろう」と云われて「なにくそ」と発憤し、「あんたなんか出てけ、この役立たず」と云われても飲み続ける親父が大勢いた。相手が元気に否定すると思い込んでいるからこそ、極端なことも云えたのではないだろうか。
 しかし今は、こうした悪態に愛情を込めたと云っても恐らくは理解してもらえないだろう。すぐに人権擁護、などという話になる。
 あまのじゃくがいるからこそ極端な云い方もできた。鬱憤を晴らすような言葉も、自然に吐けたのである。
 思えばあまのじゃくこそが、日本文化に深みを与えたのではないだろうか。どんな考え方も、全員が賛成するようでは気味が悪い。あまのじゃくがいることで、我々の文化は柔軟に深まった。じつはあまのじゃくのほうも、踏みつけられることでエネルギーを得ているのである。
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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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