「けげん」はふつう「怪訝」と書き、怪しく訝しいということだ。しかしこの熟語、じつは「怪訝」の文字が先にあったのではなく、「けげん」という音が先だったらしい。
本来は本地仏が人間のまえに仮の姿に変化して現れるのを「化現」と云い、たとえば地蔵菩薩が閻魔大王になったり大日如来が不動明王の姿をとったりする。しかしそういった理屈は、なかなか実感にはなりにくい。そこで驚いて怪しみ、訝しむような現象ぜんたいを「けげん」と呼ぶようになり、そのような意味を写し取れる文字を探したところ「怪訝」になったということらしい。怪訝に思うかもしれないが、本当のことだ。
「化現」は本地垂迹説を補強する重要な考え方でもある。「権現」という表現もあるが、この場合は「権」に「現れた」意味になる。
本地垂迹説とは、異国から流入した仏教が日本で受容されるに際して非常に重要な論理になるのだが、要するに身分の高い仏さまは民衆と直接触れあえないため、これまで皆さんが慣れ親しんできた神さまこそがあの仏たちの「化現」だというのである。
思えばこれは、「一見さんお断り」の店に、常連のAさん(神さま)の先輩だと紹介されてBさん(仏さま)が行くようなものだ。気持ちよく飲めることこの上ないに違いない。
しかし、紹介者のAさんがいくら良い客でも、結局はその「化現」としてのBさんが良い客でなくてはやがて愛想を尽かされてしまうだろう。だから「化現」であっても「けげん」なことをしてはいけないのである。
それにしても、地蔵菩薩は閻魔大王になり、大日如来は不動明王になる。優しい慈悲の仏が時に憤怒の相に変身するというのは何故なのだろう。
仏教がまず云いたいのは、人間は状況によって変わる生き物であり、誰もが怪訝な顔にもなるし憤怒だって立ち上がってくるということだろう。なんだ、仏さまも六道を輪廻してるのか、なんて思うかもしれないが、そうではない。特に教育のためには、方便として怒りを表すことも必要だということだ。「化現」は「怪訝」を超えて「憤怒」になってもOKなのである。 |