なにが億劫かといって、仏教の時間の単位を覚えるほど億劫なことはない。たとえばこの「劫」という言葉、もともとはサンスクリットのカルパ(kalpa)の訳語だが、『大智度論』巻五によれば、一辺が約十四キロ立方の岩に百年に一度天女が降りてきて、その羽衣と岩との摩擦によって岩がなくなってしまってもまだ一劫には及ばないという。また別な喩えもあり、同じく約十四キロ四方の城に芥子を充満させ、百年に一粒ずつそれを取り出して全部を取り出し終えてもまだ劫には満たないのだそうだ。
一劫でさえこうなのだから、億劫となれば時間が長すぎてやりきれない。そんな先にしか結果がでないのでは面倒くさいしやる気にならない。そこで億劫はそういう意味になったのだろう。「おっこう」が転化して「おっくう」になった。
だいたい、百年のあいだには天女の羽衣より風雨のほうが岩を侵食しやすいだろうし、芥子粒だって虫に喰われたり腐ったりしてしまうと思うのだが、その辺はどうなのだろう。
現実の問題はややこしくて億劫だから、やはり純粋理論的に考えたということだろうか。理屈じたいあまりに現実味がないが、とにかく膨大な時間であることだけは分かる。
さらにインドには「百千万億」とか「那由他」「阿僧祇」などという数量もあり、那由他は十の十数乗、阿僧祇は数十乗とされるが、経典には「百千万億那由他阿僧祇劫」なんてことも書いてある。
億劫がらずに一劫を計算した人があり、それによればおよそ四十億年くらいらしいのだが、それならこの「〜〜〜劫」は何年ぐらいなのか。さすがにここまで来ると厳密なのかいい加減なのかも判らない。
しかし約七十五分の一秒とされる刹那からこの劫まで、とにかくインド人の考えた時間はミクロでもマクロでも気が遠くなるほど幅広い。挙げ句に、彼らはゼロまで発見してしまったのである。
明らかに、ゼロの発見と「色即是空」の「空」はどこかで繋がっているのだろうと思う。もしかすると、彼らは億劫な現実をすっきり表現するためにそれらを案出したのではないか。億劫がって何かを産みだした希有な例かもしれない。 |