最近は、無条件で「利益」という文字を見せられたら、たぶん「りえき」と読む人が多いだろう。しかしこの言葉、「りやく」と読んだ歴史のほうが遙かに長いのである。
ご承知のように、「りえき」と「りやく」では全く意味が違う。
「りえき」は商行為によって人為的に得られ、誰かが損することで廻ってくるものだが、「りやく」は神仏から戴くのだから誰も損をしない。また「りえき」は予測したりもできるが、「りやく」は前もって保証はできない。
「利」も「益」もほぼ同様の意味で、その両者が組み合わさった言葉なのだが、梵語の来歴ははっきりせず、ウパカーラ、アルタ、ヒタなどが当てられる。いずれにしても「タメになること」を意味するから、損したほうがタメになったりする場合、「りえき」はないが、「りやく」はあったことになる。
主に自分の行為の結果として降りてきた利益を「功徳」と呼び、神仏への他人の行為による結果と思えるときに「りやく」と云う。
相手は神仏だから、そのお心は計り知れない。だからたとえばお経をよんだり布施をしたりという行為の結果が、いつどこに現れるかは不明である。それゆえ行為の結果は、自分に功徳としては降りず、利益として知らない場所の知らない人に廻るかもしれない。それでも自分はこの善なる行為をする、いや、それだからこそすると、仏教徒は覚悟するのである。
仏教徒にとっての因果とは、自分の行為を常に未来の功徳や利益の「因」と見ることで成立する。だからこそ、永劫という気の遠くなる未来や、同じく眼もくらむような過去も、仏道を生きるうえで初めて問題になるのである。世の中の現象を分析するために因果律を使うのは、まったくの誤用と云うべきだろう。
お金が入り、病気が治り、良縁も成就するというように、軽々しく現世利益を説く宗教も多いが、これではまるで「りえき」である。誰かの功徳を横取りでもするに違いない。
「りやく」とは、「りえき」を忘れた無私の心に、ふわりと蝶のように舞い降りるものではないだろうか。 |