「さすらいの佛教語」目次に戻る→
さすらいの佛教語
33回 さすらいの佛教語
 「藪」医者と云い、また「野暮」な奴と云う。まさかこの二つが同じ語源だなんて、誰も思わないだろう。ところがどっこい、そのまさかなのである。
 中国・隋の大仏教学者、天台智覬(ちぎ)が著した『摩訶止観(まかしかん)』では、学や行の劣る者、あるいは特に禅僧でモノを学ばない人を「野巫」と呼んで蔑んでいる。「田野(でんや)の巫師(ふし)」の略だと云われるが、つまり田舎の霊能者とか占い師みたいな意味になるだろうか。どうもこの言葉が日本に伝わり、「藪(やぶ)」と「野暮」の共通の先祖になったらしい。
 同じ先祖から、チンパンジーと人間が分かれたように、同じ「野巫」から「藪」と「野暮」に変化し、片や駄目な医者専門に形容し、もう一方は「野暮ったい」「やぼ助」などとくだけながら、より広い範囲を受け持っている。いずれにしても貶(けな)し言葉だが、さすらううちに分化した珍しいケースと云えるだろう。
 『沙石集』にはすでに「藪くすし(薬師)」とあり、「藪」は「野夫」と共にけっこう早くから使われている。「野暮」もむろん当て字だが、しかしなんと当て字がうまいのだろうと驚く。
 藪といえばハチャメチャな感じがまっすぐに伝わってくるし、野暮もじつにやぼったい。ちなみにアメリカのブッシュ大統領の「ブッシュ」も訳せば藪になるが、これは特に関係はない。
 もともと「野巫」じたい、一つ覚えで臨機応変できない人のことらしいから、藪医者にも野暮な奴にも原意は残っている。仏教が特に大切だと考える「応変力」が、双方ともないのである。
 最近はしかし「藪」も「野暮」もわかりにくくなってきた。
 大病院には設備があるから人気があるが、機械が「藪」を隠してしまうことも多いだろう。
 野暮に至っては、国をあげて野暮になっている気さえするのだが、如何だろう。入国するすべての外国人の写真を撮り、あまつさえ指紋まで採るというのは、どう考えても粋とは云えない。
 応変力に自信がないと、一律に縛るしかない。それこそ人情の機微を無視した「藪から棒」で「野暮ったい」「野巫」のようなやり方ではないだろうか。
back stop next
「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

yoritsuki oshrase profile yotei shinkan ichiran intervew taidan yukisetsu essey 前に戻る
syohyo sonota audio kobai voice kobai annai contact b2
copy