昔から修行道場では、トイレ掃除は新入りの仕事だが、食をあずかる典座(てんぞ)さんのトップは必ず熟練の修行者を割り当ててきた。修行者全員の命を預かる重要な仕事だと認識されていたからである。
台所のすぐ近くには、たいてい韋駄天(いだてん)尊者という仏像が祀られている。どこのお寺でも、戴いた食材や食べ物はまず韋駄天さまにお供えし、それからありがたくいただくのである。
韋駄天という方は、とても俊足の神さまらしく、お釈迦さまの遺骨のなかから歯が盗まれたときも、追いかけて取り戻したという話が伝わっている。その俊敏な動きで、新鮮な食材を遠くからでも求め、豊かで安全な食事を提供する。少なくとも、台所をあずかる典座さんには、そのような心構えが必要だということだろう。
台所にはまた大黒さまが祀られることも多い。本来はヒンドゥー教のシヴァ神の化身で、日本に来ると大国主神とも結びつき、ネズミと一緒に米俵に乗ってしまうが、もともとは韋駄天と同じようにインドの軍神である。
戦(いくさ)で活躍する勇ましい二人が台所に祀られる。なんだか不思議に思えるかもしれないが、実際、食材の調達から調理、配膳などの現場は、一瞬のタイミングを争う鉄火場だろう。熱いものを熱いうちに出すという当たり前のことに、必死で汗を流すのが台所ではないだろうか。
そのように、駆け回り、走って準備した人々に対するねぎらいと感謝の言葉が、ごく自然に「ご馳走さま」になった。この言葉は、それからさほどさすらうこともなく、同じように使われているが、やはり原義に対する想像力はなくなってきている。
最近では駆け回って材料を揃えるといっても、近所のスーパーまで慌てて走るのが関の山。そして急いで買ってきた餃子に農薬が入っていたりするのだから「ご馳走」とは程遠い。
食料品の自給率が下がるほどに、ご馳走率は下がるのかもしれない。むろん外国も含め、どこかで誰かが走ってはいるのだが、できるだけ身近な人々に走ってもらったほうがご馳走であり、思わず「いただきます」と奉り、感謝せずにはいられないはずである。 |