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さすらいの佛教語
36回 さすらいの佛教語
 ふつう「出世」と聞けば、係長から課長になり、さらに部長になったりすることだと思うだろう。しかし本来の出世とは、逆にそのような世俗のしがらみを離れ、仏道の世界に入ってしまうことを言った。もとより「入る」と「出る」は視点の置き場次第ですぐにも逆転するわけだが、これほど反対方向にさすらった言葉も珍しい。
 もともとはサンスクリットのローコッタラ(lokottara)が「出世間」と訳され、仏がこの世に出現することを意味した。やがて出家した僧侶がそれなりの立場に就き、たとえば住職になることも出世と呼ばれ、代々の住職は第何世というふうに「世代」で数えられるようになる。世間を出て出家してはみたものの、こちらにはこちらの世間があったということか。
 おそらくこれは、出世と漢訳されて以後、本義から転じた要素もあるのだろう。なぜなら、「世を出る」も「世に出る」も、同じく「出世」と書くからである。基本的には、本来「世を出る」だったものが、やがて「世に出る」意味に変質したということだろう。
 しかし仏道に入って世間から出たとしても、特に大乗仏教ではもう一度世間に戻って衆生を救済しなくては意味がないと考える。その場合は、とくに「出出世間」と表現する。いったん本来の意味で出世した人が戻るのだから、そのまま世間に居続けるのとは違う。その違いが非常に仰々しく表現されるのである。
 世間と出世間ではそれぞれルールが違う。
 本来は、その違ったルールゆえに二つの世界が補い合って重層的な社会を構成していたのだろう。
 たとえば世間で罪人にされる人も出世間に逃げ込めば助けてもらえる。それが中世の「アジール」と呼ばれる思想である。治外法権をもっていた寺社などの、緊急避難所としての役割がそれであった。
 今はおしなべて、世界は一律の基準で判断されつつあるが、これほど貧しいことはない。
 世間と出世間の区別はますます曖昧になってきているが、せめて「貧」を軽蔑する世間と、「貪」を軽蔑する出世間の違いくらいは保持していたい。
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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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