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さすらいの佛教語
37回 さすらいの佛教語
 現代人のとても好きな言葉であるが、古くは『後漢書(ごかんじょ)』閻(えん)皇后紀に見え、意味も勝手気ままに振る舞うことで、今までとりたてて変化はなかったようにも見える。しかしそうなったのは明治時代にFreedom やliberty の訳語に選択され、先祖返りしたからで、その中間にあたる時代にはまったく違った意味で用いられたのである。
 仏教語としての始まりは、サンスクリットのスヴァヤン(svayam)あるいはスヴァヤンプー(svayambhu)の訳語に選ばれたことだった。これは独立自存たる「さとり」の境地を意味するから、勝手気ままとはエライ違いである。
 さらに中国唐代の慧能大鑑(えのうだいかん)(六祖)がこれを一歩進める。『六祖壇経』には四例見えるが、去来(こらい)自由、来去自由のほかに「自由自在」も登場する。一例では「去来自由にして無滞無礙(むげ)、用に応じて随って作し、語に応じて随って答え、普(あま)ねく化身を見(あらわ)して、自性を離れず」とあり、まるで観音さまのようである。
 こうして七世紀初めに禅語として登場した「自由」は、やがて八世紀も末になると南泉普願(なんせんふがん)や百丈懐海(ひゃくじょうえかい)を得て、どんどん賞揚される。「自由の分」つまり自由な境涯を得ることが、禅僧としての究極の達成という雰囲気になってくるのである。
 『碧巌録(へきがんろく)』には「大自在」まで登場してくるが、こうして表現が変化してくるのは、初めに措定した「自由」がどんどん固定化して不自由になるからだろう。
 もとより仏教では、あらかじめ存在する「自」など想定してはいない。尊ぶという思念のなかにいつしか「自」が立ち上がってくるのが「自尊」であり、「由(よ)る」という行為によってゆるゆると「自」が浮かびあがることこそ「自由」ではないか。自己とはこういうものだと、現在のように予め措定することほど不自由なことはないのである。
 いずれにしても、禅語としての自由は、「自由自在」と云うときにのみ、わずかに生き残っているような気がする。
 鈴木大拙は、「自由」を英訳するとき、liberty でもfreedom でもなく、self-reliance と訳した。他に依拠せず、外に求めないからこそ「自由」なのである。
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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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