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さすらいの佛教語
38回 さすらいの佛教語
 「親分、て〜へんだて〜へんだ、一大事だ」と、八五郎は銭形平次のところに駆けつけ、おかみさんに窘められつつ水など勧められるわけだが、この「一大事」という言葉も元々は『法華経』方便品に出てくる。「諸仏世尊はただ一大事因縁をもっての故に、世に出現す」というのがそれである。
 本文を続けて読むと、一大事の因縁とはいったい何かが述べられるが、それによると、「衆生をして仏の知見を開かしめ、清浄なることを得せしめる」こと。ただそれだけのために、世尊は此の世に現れたのだと強調されている。
 それだけといっても、八五郎の持ってきた一大事よりも遙かに一大事であることは間違いない。要は究極の救済の問題である。
 禅ではより主体的に、「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と自らに引き寄せるが、どんな一大事も聞く人が一大事だと思えなければ教えを聞く気にもなれない。
 そのとき霊鷲山には何人ほどの聴衆がいたのか、詳しく計算しないと判らないが、とにかく菩薩・摩訶薩だけで八万人は居たらしい。代表して智慧第一の舎利弗がその教えを三度まで請う。しかし世尊はなかなか話しださない。すると世尊がその一大事を説きだすまえに、五千人が礼拝しながらも立ち去ってしまう。
 方便品では、そのような「縁なき衆生」も含めて、諦めずにさまざまな方便を用い、気根や因縁や能力に応じた救済の必要が諄々と説かれるのである。
 時が到り、因縁が熟さなければどんな教えも耳には届かないし、一大事とさえ思えない。なにしろ『法華経』じたい、仏が教化するのは菩薩だけだと明言している。しかしそれでも方便を使って縁をつくり、諦めずに菩薩までの道程を引導してゆく覚悟こそ大事だと、方便品の世尊は訴える。
 おそらくは、そこに白隠禅師も感動したのだろう。四十二歳の秋、こおろぎの鳴き声を聞きながら『法華経』を読んでいた禅師は、方便品を終えて譬喩品にさしかかったとき号泣したという。きっと一大事を心底諒解したのだろう。
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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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