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さすらいの佛教語
41回 さすらいの佛教語
 仏教語には梵語の音写が多いとわかっていても、「お盆」と見れば、両手に持ちきれない物を運ぶあのお盆を一瞬憶いだす人は多いだろう。ともするとその両手と、畳を擦る白足袋なども浮かんだりして、さらに「盂蘭盆(うらぼん)」などと云われたら、そのお盆を運ぶ女性が廊下でにわかに滑って転び、お盆の裏ばかりか着物の裾の裏地まで見えてしまう図など想像するかもしれないが、そんな妄想を抱いてはいけない。
 梵語のウッランバナ(ullambana)の音写が盂蘭盆で、通常これが「倒懸(とうけん)」と訳され、逆さ吊りの苦しみを意味するとされるが、いやじつはイラン語のウルヴァン(urvan=死霊)の音写なのだと云う人々もいる。いずれにしても間違いないのは、盂蘭盆とは苦しんでいる死霊を救う儀式だということだろう。
 救い方がまたふるっている。『仏説盂蘭盆経』という中国のお経によれば、餓鬼道に堕ちた目連尊者(もくれんそんじゃ)の母親を救うために、お釈迦さまは息子の目連尊者に、とにかく直接母親になにかを捧げるのではなく、衆生救済を目指して修行している僧侶たちに供養せよとおっしゃるのである。
 仏教では自らの善行の結果がたまたま自分に還ってくることを功徳と呼び、自分の知らない場所で知らない人にもたらされる善果を利益と呼ぶが、要するにこの社会は無数のご利益の連鎖によって支えられている。だから「みんなに繋がった修行僧」への供養こそが特定の個人にも最良の窓口になると判断したのが「おぼん」なのである。
 日本での儀式の原型は中国から流入し、推古帝十四年(六○六)に初めて行なわれたとされる(『日本書紀』)。
 日本古来の祖霊の迎え送りの習慣に重ねて導入されたらしく、なるほどそういえば死者の居場所がはっきりしない。仏教的極楽や地獄というよりも、月のようにもっと近い場所との往還だと日本人は感じているようだが、その点はあまり追求しないでおこう。
 さすらった後の日本のおぼんでは、とにかく無縁の慈悲を説く。じつは此の世に無縁などないと僧侶は知っているからこそ供養を受けるに値するわけだが、本当にその資格があるかと自省する日々。お盆や着物の裏地を覗いてる場合じゃないのである。
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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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