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okyo

「THE ZEN」雪山号
文/玄侑 宗久


 中陰の花が咲き、芥川賞を受賞してしまった。すると全国あちこちの和尚さんたちからたくさんの手紙が届いた。単に喜びと激励の手紙もあるが、多くは「じつは自分も永いこと小説を書いていて……」というもので、そうした潜在している僧侶小説家がけっこういることに驚いた。本門仏立宗、日蓮宗、天台宗、そしてわが臨済宗もいた。
 考えてみれば驚くには値しないのかもしれない。我々が毎日よんでいるお経という文章は、なかなかに哲学的であり、また文学的である。少なくともそれは何百年、ものによっては二千年ほどの年月を生き延びてきた。それだけの力があるということだろう。
 聖書を文学として読み直すという作業が最近起こっているが、お経もそうした読まれ方に十分堪えるものではないだろうか? そのことと僧侶小説家の存在がどう関係するかは判らないが、今後はお経も、文学的に翻案されていいのかもしれない。
 文学的、ということは個別的ということだろう。個別的すぎれば万人が繰り返し唱えるようなものではなくなってしまうが、お経の心はもっと多くの人に読み物として読まれ、現代人の心に沁みていく工夫が待たれているような気がする。
 たとえば千手観音や十一面観音のお経から、そうした奇形の仏像が生まれた物語を現代風に考えてみたり、また薬師如来として人々を癒すキャラクターを現実のなかで想定してみたり。またたとえば「観音経」で示される様々な災難とそこからの脱却も、今なお充分深刻で劇的な物語を提供してくれるはずである。
 「夜叉」や「人非人」を「テロリスト」と読むことも文学的想像力のなかでは可能だし、「為人所推堕」で飛行機の激突を想うこともごく普通の連想だろう。そのとき「観音力」を熟考することで、また新たな文学が生まれるのではないだろうか?
 手紙をくださったなかには自分はもう七十歳をすぎており、諦めたと仰る方もいたが、日々の接化のなかではそうした想像力こそ重要なのだと思う。
 小説家志望の僧侶だけでなく、どなたにもお経を、もう一度想像力豊かに読み直してほしいと思うこの頃である。

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wiskey
2001年、芥川賞・直木賞作家による競作エッセイ 「文藝春秋」1月号
文/玄侑 宗久

 酒というと鹿児島では焼酎のことだが、酒といえばウイスキーを指した時代が私にはあった。二十代で小説を書き始め、しょっちゅう新宿界隈の飲み屋あたりでウイスキーをロックでやりながら、奇妙な波を描いて氷を溶かす琥珀色の液体を裸電球に透かして見たりしていた。その濃密で芳醇な香りと、それでも透明感を失わない不思議な液体をぼんやり眺めながら、こんな小説が書けたら、と思ったりしていた。
 口に含んだ一瞬の刺激がほどなく喉から内臓に柔らかく浸みわたって熱になる。そんな口当たりも、作品で実現できればと思ったものだった。
 はたしてそんな作品が書けているのかどうか、自信はないが、今でも様々な酒のなかでウイスキーだけは何となく「作品」という意識で眺めてしまう酒である。
 先日大阪駒川で酒屋をしている親戚が「正しい水割りの作り方」で作った水割りをご馳走してくれた。私に背を向け、なにかマドラーで掻き混ぜるようなのだが細かい手口は見せてくれない。慎重に口に運んでみたが、なるほどそれは水で割ることで香りがけっして弱まらないことを教えてくれた。そこでも私は、やはり長編でも短編でも、このコクと香りが大事なのだなどと、作品に思いを馳せてしまうのだった。

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