05 rensai「福島民報」2月12日 その他、地方新聞にて掲載。共同通信
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 仏教語のなかには、完全に日常語になっていながら、その意味は変わってしまったものも多い。
 たとえば言語道断。これはよく「道」が「同」と間違って書かれるが、本来「道」は「いう」と読み、言語で道うことが難しい不可思議な仏法のこと。禅でいう「不立文字」と同じ意味だ。
 もっといえば、この場合は言葉でいえないほど魅力的だというのだが、現在の使われ方だと、言葉で表現できないほど怒っている。「まったく言語道断だよ」なんてのは「もってのほかだ」と怒っているのである。
 どうしてこんな変化が起こってしまったのだろう。
 その理由も、言語道断というしかない。
 もう一つ、ここでは自業自得をあげたが、「業」とはカルマ。つまり、長年に蓄積された経験や知識によって培われるある種の方向付けの力。だから必ずしも悪いことばかりに使うわけではなかった。いわば大学に合格するのも自業自得。良縁に恵まれるのも自業自得なのである。
 しかし人間、やはりどこかに罪悪感をもっているのだろう。自分がかつて悪いことをしなかったなどと思える人は、皆無ではないだろうか。
 私の住む地方には「因果を見た」という言葉が訛った常とう句「エンガみた」という表現があり、これも悪い結果が起こったときにしか使わないのである。過去の罪業の結果がこれだと、いわば納得するための言葉なのだろう。
 8思えばそれは、他人のせいにするよりはよほどマシな生活態度だ。しょせん、世に起こる出来事の因果など、すべてが見えるはずはない。それならよいことが起きたときには「お陰さま」と感謝し、嫌なことが起きたら「自業自得」とわが身を見つめるのは、じつに仏教的な態度といえるだろう。
 悲嘆のときにも、腹が立つときにも、自分を見つめることでしか本質的な変化は起こらない。「言語道断」と他人を怒ってみても、なんの所得もないのである。
 しかしこれらの言葉、本来は、言語道断の瞑想(めいそう)修行で自業自得の仕組みを知ったお釈迦(しゃか)さまに由来することも、覚えておいてほしい。

イラスト:長谷川 弘 CopyrightHiroshi Hasegawa,2005.
サブタイトルと見出しは、各紙異なります。
第8回は、「福島民報」に掲載されたものに合わせて掲載しました。「福島民報」では【文化】面に掲載され、「暮らしの中の仏教語」(8)というタイトルです。
※改題して引き続き連載が決定
「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」は、「中央公論」中央公論新社 誌上にて改題して連載中。目次→

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