
もともとは『荘子』の言葉だが、東洋には「渾沌」という捉え方がある。これは英語に訳すと「カオス(Chaos)」になるが、それではどうもしっくりこない。
西洋人は「初めにロゴス
※(Logos)ありき」の人々だから、ロゴス的秩序の失われたカオスをどうしても否定的に捉えている。彼らの云うカオスとは、無秩序であり、大混乱のことだから、これは本来の渾沌とは違うのだ。
渾沌とは、なにより創造機能であり、中国人はそれを陰陽のうねりとして捉えた。大切なのは、それが合理的には理解しえないことを、彼らは肯定的に見ていたということだ。本来最も創造力に富んだシステムは、ワケのわからないものを含んでいるということなのである。
だから元気のいいシステムでは、ときどきロゴスでは理解できない出来事が起こる。
たとえば妙な人が現れて小学校でナイフを振り回す。とても人間とは思えない男が小学生の女の子を殺害して捨てたりする。あるいは遅刻するのを怖れた運転士が電車を暴走させたりもする。会社の中だって、情報やお金を横領しようなんて輩(やから)が出たりする。
むろんそうした犯罪や事件じたいは困ったことだし、多くの事件には私も怒りを禁じ得ない。しかし現在の日本で問題なのは、そんなときの組織の対応である。彼らはどうも、事件一つでシステム全体を疑い、二度とそんな事件が起きないようにと、これまで慎重に組み立てたのとは全く別なシステムを作ろうとする。
それがどうしておかしいのかと、思う方もいるかもしれないが、それはシステムというものを、合理的で秩序だったものだと勘違いしているから、という気がする。
誰も侵入できないように学校の塀を高くし、しかも警備員を配置したうえで登下校には父兄に引率してもらう。これならどんなおかしな人間が出現しても大丈夫だというわけだが、果たしてそうだろうか。
どんなシステムも、それが生きている限りは必ず誤算を含む。つまり予想できないことが起こるのがシステムである以上、どんな予想も必ずいつか破られるのである。
たまに出るそうした例外のために、当初良かれと考えたシステム全体を放棄するのは如何なものだろう。

当初は子供たちに、自由に道草しながら自然に親しみ、小鳥や動物にも親しんでほしいと考えていた親たちが、今や子供を守るためにより頑丈な檻に彼らを入れようとする。それはたまに来る台風に窓を壊されないようにと、窓のない家を作るようなものだ。風通しが悪くてとても住めたものではないだろう。
行政も会社も、最近は管理を厳しくすることで例外を産みだすまいと躍起であるように見える。しかし例外が生まれなくなったとき、そのシステムは死んでしまうことを忘れてはならない。『荘子』における渾沌も、眼鼻耳口が全部できて「解った」とき、死んでしまったのである。
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組織である以上、スタンダードを設定することは必要かもしれないが、善くも悪しくも例外はあったほうがいい。わからない要素は多いほうが面白いではないか。優れた発明も未曾有の大躍進も、みな例外が力を得て引き起こしてきたはずである。
疑って管理を強めるのではなく、あくまでもシステムは、システムそのものを信じることで力を発揮する。システムを活かすには、予想しないことが起こることは前提に、どーんと構えることだ。
あなた自身、渾沌を孕んだシステムなのだから。