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空海が発明した金剛界曼荼羅(まんだら)と胎蔵界曼荼羅の並置にも、明らかに相補性を尊重する発想が窺(うかが)える。
簡単すぎる言い方かもしれないが、ダイヤモンド(金剛)のように輝く真理を求める意志と、母親の胎のように現状を温かく容認する態度の、双方が人間には必要だということなのだろう。演繹(えんえき)的な見方と帰納的な見方と云うこともできるかもしれない。
こうした東洋の発想から、多くの量子物理学者たちはヒントを得たことが、今では広く知られている。ボーアは老子や仏陀(ぶっだ)が好きだったらしく、また不確定性原理を提出したハイゼンベルクも晩年は真言密教を実践したらしい。中間子理論で日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士も、その発想は老荘思想から得たと語っている。
私はべつに東洋の優位を述べようと考えているわけではない。ただ、コントロール思想ばかりで息苦しい今の世の中だからこそ、是非とも相補的な認識をあらためて自覚すべきではないかと思うのである。
ニールス・ボーアは、常々この相補性という考え方を、哲学や心理学にも採り入れるべきだと主張していた。
現実に即して云えば、どんなモノサシも絶対化してはいけないということではないだろうか。
国家というモノサシ、学力というモノサシ、老人や福祉というモノサシ、あるいは心や愛情を測るモノサシまで、最近ではあまりに一律なモノサシが押しつけられてはいないだろうか。
科学主義のせいにするつもりはない。なんといっても、科学者であるニールス・ボーアが相補性を再発見してくれたのだから。
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