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| 結果を期待せずにやる |
| 文/玄侑 宗久 |
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今の世の中で、おそらく最も大手を振っているモノサシは、お金だろう。つまり、「幾らもうかるか」というモノサシで、人々が動いている。
むろん少し緩やかに、「それはタメになる」という言葉も使われるが、大差はない。「泣ける」小説などという効能書きも、同じ理屈だろう。結局は自分にとって、それがどんな利益をもたらすか、という計算がどんな場面でもなされており、しかもその計算は、当たるものだと思い込んでいるのである。
学校の生徒たちも、よく「それをするとどうなるのか」と訊(き)くらしい。結果次第でやるやらないを決めるため、打算的な思いを巡らしているのだろう。 |
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| ■もうからなくても |
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大袈裟(おおげさ)に聞こえるかもしれないが、これは教育の現場にまで市場原理がなだれ込んできたということだ。効率のために苦吟する大人たちを見ていれば、サルだってその真似(まね)をするに違いないが、正直なところこれは、歴史上未曾有の深刻な事態だ。
むろん、それに対する相補的な見方といえば、「もうからないけどやる」「なんだか分からないけど、やる」ということだろうか。大人が自信を持って子供にさせたいことは、結果を期待させずにやることを命じるべきなのだろう。結果的に子供はそこから何かを得るだろうが、それは利益を目指すのとは全く違う行為になるはずである。
少しまえまでは、「ならぬことはならぬ」という会津武士道のような有無を言わせぬ言葉が、親の口からは聞かれたものだった。
しかし敗戦に対する過度の反省と、戦後の民主主義で言葉を過信してしまったために、人々は言葉で説明すれば何でも理解できるものだと思い込んだ。なにもゲンコツを落とさなくとも言葉で言えば、というのが現在の常識である。
しかし人が怒りを覚えるというのは、もっとワケの分からない状態ではないだろうか。言葉にすればどうしてもウソが混じる。「愛の鞭(むち)」などと云(い)ってみても、どうしてもしっくりこない原初の気分がありはしないだろうか。
それでも現在のような功利的な社会においては、その気分を発露させてみても何も「もうからない」し何の「タメにもならない」。そうなると、原初の感情じたいが薄れてはこないだろうか。
いや、もしかすると、それは薄れるのではなく、発露しないままに蓄積していくのかもしれない。
大人も子供も、発露しないままに蓄積している影の自分に、もしかすると取り囲まれているのではないだろうか。
世の中から肯定される部分だけが自分の個性と認識され、そうでない、役にも立たないしワケの分からない部分は切り捨てられて影に蓄積する。だからこそ「あなた、悪い霊が憑(つ)いてますよ」などと霊能者に言われるとギクリとする。言われてみれば、たくさんいてもおかしくないと思えるのである。
ユングは、合理主義と迷信は相補的なものだと書いている。つまり、意識的な精神が合理的であればあるほど、無意識の幽霊の世界はいきいきしてくるというのだ。最近は大人子供に関(かか)わらず、霊の存在を信じる人々が増えているようだが、これもユングに言わせれば、心理的法則どおりの自然な現象なのだ。
なにも私は、幽霊を認めよと申し上げているわけではない。
社会があまりに合理性を追求し、あまつさえ合利性に入れあげているために報われない悪霊が増えているなら、そのまえの段階で個性を求めることをやめ、「もうかる」ことも程ほどにして、もっとワケの分からない時間を体験することを提案したいのである。
ワケの分からないことを言う大人もいてくれなくては困る。たいていそれは父親の役目だったのだろうが、どうも最近の父親はおとなしすぎるような気がする。 |
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| ■ややこしいこと |
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社会全体がおとなしい=大人(おとな)しい=打算的だとするなら、そこに必要な相補的な在り方は、「ややこしさ」かもしれない。さっきはワケの分からない時間と書いたが、思えば「ややこしい」というのは大人から見た「ややこ=赤子」の様子ではないだろうか。「ややこ」はワケが分からないので「ややこしい」。
しかし、そう見たのはあくまで大人しい大人だから、「ややこしい」には別な意味も汲(く)み取らなくてはならない。純粋、渾沌(こんとん)、自然、なんでもいいが、とにかく我々は人生を、おとなしくもややこしい、相補性に満ちたものにして、霊などなくても充分楽しいものにしなくてはならない。
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「中日新聞」には、
サブタイトル:「打算抜き ワケも不要 そこから何かを得る」で掲載されました。
当サイトでは、「東京新聞」に合わせて掲載しています。 |
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