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禅のいろは
 前節でも触れたが、とにかくこの諺の場合、「棒」にどんな意味を込めたのかが謎(なぞ)である。
 「一寸先は闇」であるなら、棒は「藪(やぶ)から棒」になる。うす暗い藪の中からいきなり棒が出てくれば、誰だって肝(きも)を冷やすだろう。
 「急に百万円貸せだなんて、ずいぶん藪から棒じゃないか」
 こんなことを言われた場合、たぶんお金は貸してもらえないだろう。藪からかぐや姫ならともかく、藪から棒が現れることは、誰も歓迎しないのである。
 しかし予期しない棒ではあっても、「一寸先は闇」と思わない人にとってはずいぶん違ったイメージになる。楽天的な人にとっては、「なにしろ当たるってんだから、棒でも何でもいいじゃないか」ということになるのだろう。
 昔、私が子供の頃、父は住職でありながら学校の教師もしていた。あるとき両親の会話から、私は「ボーナス」という言葉を拾ってしまった。なんだか嬉(うれ)しそうに語られるのを聞いて、私は「ボーナスって、何?」と質問した。すると父は、苦笑いしながら答えた。
 「そりゃあ、棒と、ナスだよ」
 子供心に、なにかおかしいとは感じたものの、ナスはともかく、私はそういう素敵な棒があるに違いないと思った。数年はそう信じていたのではないだろうか。
 考えてみれば、「相棒」という言葉がある。これはおそらく、籠(かご)掻(か)きが担(かつ)ぐ棒だろう。その場合、身長もあまり違ってはいけないが、同じ棒を担ぐ二人は何より気が合わなくてはならない。気が合って、いつも一緒に行動する仲間のことを、うちの地方では「棒組(ぼうぐみ)」とも呼ぶ。
 「あれ? 彼も一緒に来たの?」「ああ、あいつら棒組だから」などと使う。
 そういう相棒に出逢(であ)えるなら、出歩くことにはとても大きな意味がある。「犬も」棒に当たるのだから、人間だって無二の相棒に出逢うため、どんどん出歩くべきだろう。だいたい結婚だって、たいていは「藪から棒」のように出逢い、無二の伴侶(はんりよ)になっていくのだし。
 要するにこの諺では、出逢うまえからあれこれ棒を詮議(せんぎ)するのではなく、とにかく動いてみろと言いたいのである。
 近頃の日本は、なにか事件が起きると細々(こまごま)とした規則をどんどん増やし、「二度とこのようなことが起こらないように」対処する。
 しかも死ぬまでの目標まで細かく立て、思惑どおりに人生をコントロールしようとする。
 しかしそんな思惑は、動けば変わるし、場合分けのない規則などどんな現実にも当てはまらない。ただ窮屈な規則で動きにくくなり、生命力を衰(おとろ)えさせているのではないだろうか。
 それじゃあ、行き当たりばったりじゃないか、と反発するかもしれないが、そう、行き当たりばったりが一番なのである。禅的には、予断なく出逢うことを、風鈴と風との出逢いにも喩(たと)える。風鈴の音は、予期せぬ風に無計画に鳴るからこそ涼しげなのである。
 さあどんどん、行き当たりばったり、棒に当たろう。
 そういえばうちのナムも、散歩の途中で出逢った近所のメス犬に懸想(けそう)したことがある。飼い犬の立場上、無二の相棒になることはなかったが、ある晩手品のように鎖(くさり)を抜け出し、どうも一夜の契(ちぎ)りを結んできたようなのである。たしかに犬も歩けば棒に当たるのだ。
 自然界は予期せぬ棒に充ちている。棒を怖れず、しかも棒に予断をもたず、虚心に棒を見つめていただきたい。そうすれば、棒じたいには何の悪意もないことが判(わか)るだろう。当たった棒禅のいろはを相棒にできるかどうかは、あなた次第なのである。
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禅のいろは

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