| 先日、ラオスに行ってきた。
この国は日本と同じくらいの面積があるのだが、ベトナム、タイ、ミャンマー、カンボジア、中国という五カ国に囲まれ、しかもアメリカやフランスのインドシナ侵攻の影響をモロに受けた。またソ連の社会主義も浸潤して、いわば日本以上にさまざまな外圧を受けながら、それをなんとなく穏やかに受け流してきた国のように見えた。
つまり、政治的には長い間「翻弄された」はずなのに、国民の一人ひとりは、イデオロギーなどにそれほど汲々としていないふうなのである。
なぜなのか、と通訳に質問すると、彼は「農民が八十%以上ですから」と答えた。
要するに、自分の食べるものを作っている国民が大部分だから、政治がどう変わろうと、そう不安ではない、と云うのである。第二次世界大戦のとき、唯一食料輸出国だったタイが、どこの支配も受けなかったことにも重なる。
ラオスも仏教国だから、毎朝の托鉢風景は荘厳である。
日本の托鉢だとお金を供えることが多く、米をあげる場合は当然炊いていない米そのものになる。しかしラオスでは、托鉢後、それはすぐにその日の僧侶たちの朝食になるため、人々は自分たちが食べる食事そのものを供える。当然炊いてあるわけだが、私など、もしや鉢の中でご飯がごちゃごちゃになるのではないかと、他人事ながら気になっていたのである。
しかし沿道に並んだ人々が用意しているのは、ほとんどが餅米のいわゆる「おこわ」(強飯)で、食べやすいように小さな団子状に丸めてあるのだった。
聞くとこの国の人々は、普通の「うるち米」も食べるが、餅米のほうが一般的らしい。しかもその「おこわ」は香りがよく、噛んでいるほど甘味が出てくる。どこのレストランでも、必ず「スティッキー・ライス(おこわ)」と普通の「スティームド・ライス」が両方用意されているのである。
都市への人口集中度は非常に低いが、それでも市中には自分で農業して食料を作れない人々も多い。そして彼らは一様に貧しいわけだが、その貧しい家の子どもたちも、じつは朝の托鉢には大勢集まってくる。それぞれが空のダンボール箱を持ち、修行僧たちの「おこぼれ」を頂戴しようというのだ。
むろん、実際にこぼれたものを拾うわけではなく、食べきれないほど頂いた僧侶たちが、自分の鉢から「おこわ」玉や餅菓子、果物などを分けてよこすのである。
市民から僧侶への托鉢が、間接的に貧しい人々をも救っているということだ。
一週間ほどの滞在期間中に、警察官の姿を一度も見かけなかったのも偶然ではないだろう。貧しければ犯罪に走る、といった構図が、この国では成り立たないような気がした。いや逆に、貧しいほどに僧侶への感謝の念は増すのではないだろうか。どんなに貧しくとも、この国では出家すれば教育が受けられ、食べるのに困ることもない。
公式には四十七、分類によっては六十以上の民族が暮らす国だから、単純には云えないが、この穏やかな人々の穏やかさを支えているのは、米そのものであるような気がした。
また今回の旅は、大好きな「うるち米」だけでなく、スティッキー・ライスを見直す旅にもなった。日本のお寺にお供えいただくのも「おこわ」が多いわけだが、どうもあれは、人にあげやすかったからに違いない。
|