2016年5月 中日新聞・東京新聞・北海道新聞・北陸中日新聞連載 うゐの奥山

第五十回 ビッグデータ


「年々歳々花相似たり」というが、そうでもない。今年の桜を眺めつつ裏山を歩いていたら、去年までずっと花をつけなかった枝垂れ桜が、無数の花を咲かせていたのである。

私がこの寺に戻った直後に植えた木だから、もう三十年も経つ。その間、一緒に植えた他の木がどれも綺麗な花をつけたのに、その木だけは花の時季に葉を茂らせていたから、何かの病気だろうと思っていた。近くの桜と距離も近すぎるし、今年咲かなかったら伐るしかないかと迷っていたのである。

まるでそんな私の思いを察知したかのように、桜は驚くべき変貌を遂げた。「男子三日会わざれば刮目して見よ」などというが、三十年にして初めての革命的変化であった。

じつはそこからしばらく墓地を歩いて行くと、去年エアースコップなるもので周囲の地面に穴を開けてもらった桜がある。通気通水をよくした途端に翌日に新芽が吹いたのだったが、枯れかけたその木はどうか、というのが花見散策のもう一つの目当てでもあった。

行ってみると、やはりどの枝にも花がついている。これまた感動的な復活ではないか。一本はエドヒガン系の紅枝垂れ、もう一本は普通のソメイヨシノ。いずれも内部変化の詳細は知るべくもないが、とにかく劇的な変化が内部で起こったに違いない。

そんな木たちの変化を目の当たりにすると、思わず人間世界に目を転じたくなる。「歳々年々人同じからず」と続く劉(りゆう)希(き)夷(い)の原作は、昔同じ花を一緒に見た女性が今やいないことを嘆くのだが、「人同じからず」の様相は、死別だけでなく本人の老化や病気による変化も大きい。病中に見る桜と、快癒後に見る桜では「花同じからず」とも見えるのではないか。いや、花が違って見えたからこそ、それを「人同じからず」と表現したのではないか。つまりこの詩は、花が毎年同じはず、と決めつけたうえでの感慨ではないだろうか。

ところで国は、「ビッグデータ」と称する匿名の医療情報を集めて活用しはじめるという。さまざまな病気治療や健康診断の結果などを、本人の承諾なしに集められる機関を作り、新薬の開発や治療に活かすというのだが、どうもこれは医療の平均化をさらに進める試みのように思える。

平均化して何が悪い、というご意見もあるだろう。それがレベルアップに繋がるケースも確かにあるかもしれない。しかし私が心配なのは、先に述べた二本の桜のような革命的事態が、きちんとデータとして取り込まれるのかどうか、ということだ。

効率を優先するシステムが、まず真っ先に捨てるのが奇跡としか思えない個別性ではないか。新薬や新たな治療法は、間違いなく経済効果の上がる「平均値」のためにしか開発されないだろう。それが悲しい。



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