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「AERA」(アエラ)9月13日 9月22日号
 
朝日新聞社
文/千葉 望



 7月25日の夜、福島県三春町御免町にある臨済宗妙心寺派福聚寺の本堂は強い雨に降り込められていた。月にいちどの坐禅会に参加する人々が30人余り、ほの暗い本堂に集まっている。
 坐禅の指導をするのは、墨色の衣を身につけた、福聚寺副住職で作家の玄侑宗久である。低いがよくとおる声で解説をし、警策をかまえて参禅者の間をゆっくりと歩く。警策が人々の背に振り下ろされるたびに、本堂に乾いた衝撃音が響いた。ほかに聞こえてくるのは、屋根瓦を流れ土をうがつ雨音だけだ。
 2時間あまりの坐禅会が終わると、書院の座敷に移り、一転にぎやかな茶話会となった。玄侑は初心者たちに感想をたずね、会話をリードしながら和やかな雰囲気を楽しんでいるようだった。
 玄侑の毎日は忙しい。福聚寺は大きな寺である。住職である父と玄侑、さらにふたりの僧が加わってなんとか行事を滞りなくすませ、法事や葬式をこなしていく。合間に小説やエッセイを書き、講演や対談、テレビ・ラジオ出演の依頼に応える。手紙や電話での相談も多い。
「この前は、長崎でおきた幼児殺人事件について原稿を書いてほしいと、突然編集者が訪ねてきましたよ」
 電話で依頼したら絶対断られると思ったとその編集者が言ったそうだが、凄まじい締切設定にもかかわらず玄侑は「A少年に五百年の暗闇を」(「文藝春秋」2003年、9月号)本文→という原稿を書いた。「禅僧」で「作家」という立場での発言が求められていることをわかっているからだ。もしも彼が普通の僧だったら、そもそも原稿依頼などこない。作家だけだったら、「忙しい」と断ることができたかもしれない。だがふたつを兼ね備える道を選びとったのは、ほかならぬ玄侑自身である。
 玄侑は、福聚寺をあずかる橋本家の長男として生まれた。鎌倉時代の創建で、三春藩藩主・田村家の墓所ともなっている福聚寺は、歴史のある三春の中でもよく知られた存在である。
 家風は質実だった。父は東大国文科で短歌を専攻し、自分でも歌を詠むインテリである。贅沢は許されなかったが、本だけは家にどっさりあった。あだ名は当然のように「坊主」である。幼稚園から中学までいっしょだった三春のカネサン書店代表取締役・渡辺康人は、「明るくて、目立ちたがり屋。でも中学のころから『俺、お寺やりたくねんだ』とはもらしてたなあ」という。
 明るい宗久少年の人生に影を落としていたのは「寺の跡取り」という運命だった。そこに暮らす人間にとって、寺とは信仰の場というより生活そのものである。玄侑が「寺は社交業」というとおり、檀家や同じ宗派の寺院とのつきあいが仕事の中心で、それでいながら相手の内情にまで関わる場面が多い。生と死を扱う仕事だから当然なのだが、そこには布施や寄付という形でお金のやりとりが発生し、生臭い問題もついてまわる。思春期の少年にはそれがなんともうさん臭く、キリスト教のような一神教が、清潔で魅力的に思えた。
 中学生になった玄侑は、寺が抱える矛盾を父にぶつけるようになった。いただいたものでありがたく暮らすという精神に矛盾はないのか、魚が食いたければ寺の前にそう書いて貼り出したほうが正直だろうbar
 父は「もうちょっとたったらわかるから」と息子をいなした。
 玄侑が恩師のひとりとして懐かしむ禅研究家、故・星清の妻・寿美子は、「宗久さんは、中学3年生のとき、福聚寺さんにおみえになった臨済宗妙心寺派の管長・山田無文老師にもつっかかったことがあるんだそうですよ」と笑いながら振り返った。
 中学で詩を書き始め、高校進学後は童話研究会に入って童話執筆に手を染めた。
「50枚ぐらいの作品を書いたんだけど、同級生が220枚の長編を書いてきて『負けた!』」と思いました」

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 少しずつ作家への夢が頭をもたげはじめる一方で、彼の精神的・宗教的な遍歴が本格化していった。高校1年のときには家出を敢行。新潟で曹洞宗の寺院に泊めてもらった。仏教への反発は他の宗教への興味関心となって表れた。モルモン教、ものみの塔、天理教、統一教会bar。あちこちの宗教団体に顔を出し、本を読みあさる。父は彼の彷徨を黙認していた。
 寺の人間もさまざまである。宗教を必要としない人だっているだろう。だが玄侑は明るさの半面、内省的な気性や宗教への関心を強く持ち合わせていた。彼の遍歴をみれば、仏教へと向かう螺旋状態といえなくもない。家出した先で、反発していたはずの「寺」に宿を求めるなど、普通の人間には考えにくいのではないだろうか。
 寺の後継ぎはいやだ、作家になるのだ。大きくふくらんだ夢を背負い、玄侑は75年に大学入学のため上京。同人誌に参加し、それから10年近くの時間は作家修行に費やされた。当時からの友人・吉武利文に「玄侑さんの若いころの話を聞きたい」と電話をすると、なぜか爆笑された。
「なぜ笑ったかって?僕たちは彼に『ナマグサ』ってあだ名をつけてました。芥川賞をとって以来、まわりは偉い人みたいに持ち上げてますけど、友人にしてみたら相変わらずナマグサの橋本チャンですよ。下世話な話にくわしいし、話好き。文学論なんか、全然しなかった」
 同人誌に初めて掲載された作品は20枚の『水精』。「にんふ」とルビをふった。
「そのセンスでどんな小説かわかるでしょ。今から思えば恥ずかしい。苦しむべきところを全然苦しんでなかったしね」と玄侑は照れ笑いをする。
 やがて玄侑はいろいろな職業を転々とするようになった。寺の人間は実体験が少ない。本山の職員とか、教師や公務員と兼業することはあっても、地を這うような仕事にはつかずにすむ(あるいは避ける)のが普通である。それがまた若さを刺激し、広い世界を見ずして何が語れるかという気負いが生まれる。
 コピーライターはともかくとして、英会話教材の営業、ナイトクラブのマネジャー、ごみ焼却場従業員、工事現場の労働者と、およそ彼には似つかわしくないことばかり選んだようである。 
 建設労働者時代は飯場で荒くれ男たちと共同生活をし、毎日スコップやつるはしをふるった。体力には自信があったし、酒が強かったので仲間たちとコミュニケーションをとるのは困らなかった。だが、ある日、自分の手を見て愕然とする。
「潮風に焼かれ、節くれだって血管が浮き出ていた。まるで他人の手みたい。自分のアイデンティティが崩れるような思いがしました。そもそもそんなものを崩そうとしてやったことなのにね」
 古刹に生まれ、本に囲まれて育った自分の生きる場所はここにはないと、玄侑は痛感したのではないだろうか。そもそも玄侑の彷徨は、環境がもたらしたゆとりの産物なのだ。理解のある親、すぐに定職につかなくても許される家庭的な背景。本人なりに必死だったのだろうが、飯場やごみ焼却場の同僚たちには望んでも持ち得ないゆとりである。
 玄侑は25歳のとき、父に「27歳までは作家修行を続ける」という約束をした。だが小説家として芽が出ないまま、期限が近づいてきた。書き上げた作品「百花金泥(ひゃっかきんでい)」が掲載される予定だった文芸誌が、突然休刊するという悲運も味わった。
「そのころはなんとかしたいとあせっていましたが、今にして思えばなんとかならなくてよかったんです。結局、小説と禅の両方を一生追求する覚悟で入門を決めました」
 84年、27歳になった玄侑は天龍寺の門を敲いた。
 修行僧時代をふりかえって、玄侑は、「ここでは心をできるだけ軽んじることを学びました」と話す。
 人間はとかく心を重く考えすぎる。僧堂では、肉体的な体験を通じて心が左右されることを徹底的にたたきこまれる。坐禅のとき目をつぶってしまえばさまざまな妄念に悩まされるが、半眼ではなぜか抑えられるというのはもっとも初歩的な例だろう。作務、坐禅、読経、そして托鉢。型にはめられ、型を徹底することで自由な精神を獲得していくという体験である。
 玄侑の後輩にあたる若槻大浩(現・松江市円成寺副住職)は、よく一緒に托鉢に出かけた。

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