少しずつ作家への夢が頭をもたげはじめる一方で、彼の精神的・宗教的な遍歴が本格化していった。高校1年のときには家出を敢行。新潟で曹洞宗の寺院に泊めてもらった。仏教への反発は他の宗教への興味関心となって表れた。モルモン教、ものみの塔、天理教、統一教会

。あちこちの宗教団体に顔を出し、本を読みあさる。父は彼の彷徨を黙認していた。
寺の人間もさまざまである。宗教を必要としない人だっているだろう。だが玄侑は明るさの半面、内省的な気性や宗教への関心を強く持ち合わせていた。彼の遍歴をみれば、仏教へと向かう螺旋状態といえなくもない。家出した先で、反発していたはずの「寺」に宿を求めるなど、普通の人間には考えにくいのではないだろうか。
寺の後継ぎはいやだ、作家になるのだ。大きくふくらんだ夢を背負い、玄侑は75年に大学入学のため上京。同人誌に参加し、それから10年近くの時間は作家修行に費やされた。当時からの友人・吉武利文に「玄侑さんの若いころの話を聞きたい」と電話をすると、なぜか爆笑された。
「なぜ笑ったかって?僕たちは彼に『ナマグサ』ってあだ名をつけてました。芥川賞をとって以来、まわりは偉い人みたいに持ち上げてますけど、友人にしてみたら相変わらずナマグサの橋本チャンですよ。下世話な話にくわしいし、話好き。文学論なんか、全然しなかった」
同人誌に初めて掲載された作品は20枚の『水精』。「にんふ」とルビをふった。
「そのセンスでどんな小説かわかるでしょ。今から思えば恥ずかしい。苦しむべきところを全然苦しんでなかったしね」と玄侑は照れ笑いをする。
やがて玄侑はいろいろな職業を転々とするようになった。寺の人間は実体験が少ない。本山の職員とか、教師や公務員と兼業することはあっても、地を這うような仕事にはつかずにすむ(あるいは避ける)のが普通である。それがまた若さを刺激し、広い世界を見ずして何が語れるかという気負いが生まれる。
コピーライターはともかくとして、英会話教材の営業、ナイトクラブのマネジャー、ごみ焼却場従業員、工事現場の労働者と、およそ彼には似つかわしくないことばかり選んだようである。
建設労働者時代は飯場で荒くれ男たちと共同生活をし、毎日スコップやつるはしをふるった。体力には自信があったし、酒が強かったので仲間たちとコミュニケーションをとるのは困らなかった。だが、ある日、自分の手を見て愕然とする。
「潮風に焼かれ、節くれだって血管が浮き出ていた。まるで他人の手みたい。自分のアイデンティティが崩れるような思いがしました。そもそもそんなものを崩そうとしてやったことなのにね」
古刹に生まれ、本に囲まれて育った自分の生きる場所はここにはないと、玄侑は痛感したのではないだろうか。そもそも玄侑の彷徨は、環境がもたらしたゆとりの産物なのだ。理解のある親、すぐに定職につかなくても許される家庭的な背景。本人なりに必死だったのだろうが、飯場やごみ焼却場の同僚たちには望んでも持ち得ないゆとりである。
玄侑は25歳のとき、父に「27歳までは作家修行を続ける」という約束をした。だが小説家として芽が出ないまま、期限が近づいてきた。書き上げた作品「百花金泥(ひゃっかきんでい)」が掲載される予定だった文芸誌が、突然休刊するという悲運も味わった。
「そのころはなんとかしたいとあせっていましたが、今にして思えばなんとかならなくてよかったんです。結局、小説と禅の両方を一生追求する覚悟で入門を決めました」
84年、27歳になった玄侑は天龍寺の門を敲いた。
修行僧時代をふりかえって、玄侑は、「ここでは心をできるだけ軽んじることを学びました」と話す。
人間はとかく心を重く考えすぎる。僧堂では、肉体的な体験を通じて心が左右されることを徹底的にたたきこまれる。坐禅のとき目をつぶってしまえばさまざまな妄念に悩まされるが、半眼ではなぜか抑えられるというのはもっとも初歩的な例だろう。作務、坐禅、読経、そして托鉢。型にはめられ、型を徹底することで自由な精神を獲得していくという体験である。
玄侑の後輩にあたる若槻大浩(現・松江市円成寺副住職)は、よく一緒に托鉢に出かけた。