2

「宗久さんと出かけるときは、なんとなくわくわくしたものです。必ず新しい出会いみたいなものがありましたから。人の話を聴くのがとてもうまかった。本当は繊細な人だと思うけど、表に出さずいつもおおらかにふるまっていました」 
だが、玄侑たちの指導役を務め、警策が何本も折れるほど後輩を厳しくしごいたという安永祖堂(現・花園大学教授)は別の姿を見ている。
「彼が僧堂でも原稿を書いていたことは知っていました。本来なら叱るべきだったかもしれない。でもできなかった。だって、かわいそうじゃないですか。小説をやめたと聞いていたのに、睡眠時間を削ってでもまだ書こうとしている姿を見て、彼はそうせずにはいられない業をしょってるんだな、と思ったものです」
 この話を聞いた玄侑は、ひどく驚いたようだった。そんなことを安永が知っているとは思っていなかったのだ。「書いていたのは小説ではなくて、ただのスケッチみたいなもの」と言い訳していたけれど。
 反発し続けていた仏教の世界は、いざ身を投じてみると尽きない魅力にあふれていた。福聚寺に戻るよりも修行のほうがおもしろかった。だが、父が軽い脳梗塞で倒れる。三春に戻らざるをえない。
「僧堂を出るのだと安永さんに話したら、『で、どうするの?』とたずねられました。『旅もしたいし』というと、『旅はここにいてもできるんだけどね』って。当時はその意味がわかりませんでした」
天龍寺を出て、しばらく神戸の寺に寄ったが、87年、31歳のとき福聚寺に戻った。長い彷徨の果ての帰還であった。
 副住職として働き始めた玄侑の動きは精力的だった。日々の仕事のほかに図書館などの新設備の建設、カンボジア難民の支援活動、プロの演奏家や舞踊家を呼んだイベントの企画・運営。手を広げたのはかつて寺が持っていた役場や学校、文化センター、公民館としての機能を取り戻したいと願ったからである。三春には玄侑の同級生がたくさんUターンしていて、なにかと手助けをしてくれた。
「天龍寺に入ってから2年半ほどした夏休みに郡山の家屋千軒が床下浸水する8・5水害があったんです。私も街をまわっていろいろと救援物資を集め、トラック2台分にもなった物資を配りました。そのとき地元の人たちが共鳴してくれたことが大きかったですね」
 地元にも力を合わせてなにかをやっていける人々がいる。その実感は玄侑にとって新鮮だった。故郷には乏しいと思っていたものが、豊かに存在していたのだ。
 イベントのちらしを何種類か見せてもらったが、充実ぶりに驚かされた。これでは相当手間がかかったはずである。
「ある時期打ちこんでいましたが、そのうち『イベントは流れていくもので引っかかりがないなあ』と、物足りなさを感じるようになったのです」
 仏教では引導を渡すという言葉がある。臨済宗では葬儀のときに死者の一生を短くまとめた「引導香語(いんどうこうご)」を詠みあげるが、ひとりひとりふさわしい香語を書くのは僧の仕事である。よく知っている相手はともかく、そうでなければ周辺の人に故人の人柄や経歴を取材しなければならない。
「そうすると、人によってはまとめきれないことが出てくるわけです」
「生と死」や「死者」にまつわるさまざまな記憶や営みに接する僧の仕事は、小説のネタの宝庫である。そのわりに小説を書く僧が少ないのは、説教や法話を通じて少しずつ発散されていくからではないか。
 ところが、玄侑は発散しきれないものを内に温めていた。長い彷徨によって獲得した体験と視野。人とのつながり。僧堂の厳しい修行の中でも手放せなかった書くことへのこだわり。
 小説を捨てて15年以上がたったころ、玄侑はもういちど懐かしい表現形態を選びとる。久しぶりに書いた『水の舳先』を文芸誌に投稿すると、さっそく掲載されて芥川賞候補作品となり、『中陰の花』で芥川賞を受賞。満場一致である。若かったころ、あれほど苦しんだことが嘘のように順調な再出発だった。
 『中陰の花』には霊能者たる「おがみや」の老女ウメさんが登場する。自ら死ぬ日を予言した彼女と僧の則道との関わりやそこで遭遇する霊的体験が描かれる。
 いつも候補作に辛口の選考委員・石原慎太郎も高く評価し、選評に「こうした主題は人間が『存在』についての認識を持つ唯一の生命体である限り常に、そして合理がいたずらに幅をきかせる現代となればますます新しく、他にもまして文学の正統な主題なのである」(『文藝春秋』2001年、9月号)と書いている。
 本来なら、おがみやのようなシャーマニズムは禅宗とは無縁なはずだ。だが玄侑は正面から人知を超えた体験や、それにすがる人々を文学のテーマとした。
 僧堂で玄侑の同期生だったという佐々木容道(現・天龍寺僧堂師家)は、「おがみやに代表される田舎の信仰は、先祖崇拝と強く結びついています。それはそれでとても大切なこと。その気持ちを大事にしながら、仏教の第一義に導けばいいんですから。教理からではなく信仰心の面から人々の心をとらえ、受けとめる寛容性が彼にはあるんでしょう」と玄侑を評した。
 禅僧として接する檀家の人々は、寺とつきあいながらもおがみやのような存在を頼りにし、うまく使い分けをする。仏壇と神棚が同居する光景はまさに日本的だ。玄侑はそれらを不快に思わない。
 一神教は以前思っていたように清らかなのか。ユダヤ・キリスト教文化とイスラム文化とが激突する中でテロや紛争、戦争が続くのは、一神教が持つ偏狭さも遠因ではないのか。今の玄侑には「八百万精神」が大切に思える。

3

 玄侑に「ずっと東京にいて小説を書いていたらどうなったと思うか」とたずねてみた。「使い物にならなくてつぶれていたでしょう」という答えが返ってきた。三春という根、仏教という根があって、はじめて玄侑の小説世界が育まれる。ひっきりなしに持ち込まれる講演の依頼も、僧としての役目を果たすつもりで時間のゆるすかぎり引き受けている。そしてそこでも八百万精神や寛容の大切さを説く。
「なんにせよ坊さんって“総合職”だと思うんです。楽しいですよ。『よく二足のワラジをはいている』と言われますが、私は一足の大きなワラジをはいているのだと答えることにしています」
 なんどか訪ねた三春の町は、自然に恵まれ、落ち着いた土地だった。ロードサイドに大型店やパチンコ店の看板がひしめき、無残な姿をさらしている多くの地方都市とは違って、小規模な店が並び、穏やかな風情をかもしだしている。
「ここは変わった町でね。三春の駅を作るときもうるさいからという理由で町の中にはつくらせなかった」と玄侑が教えてくれた。
 不便は不便だが、静かさはそれに代えがたい。町の中でも緑は深く香り、思わず胸郭をいっぱいに広げて深呼吸したくなる。東京から1時間半のところにこんな町がある。
「安永さんが『ここにいても旅はできる』と言われたわけが、ようやくわかったような気がします」
 そういえば、安永はこうも言っていた。
「禅は『不立文字』でしょう。言葉にできないはずの禅の世界を彼は書こうとしている。今後どのように発展していくのか、私には興味があるな」
 不立文字とは「教説に頼るのではなく、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りにまっすぐ入るべし」という禅の真髄を語る言葉である。不立文字の道を求めるべき禅僧がものを書くからには、それだけの覚悟があるのかと、安永は問いかけているのだ。ただの作家ならこんなことは問われない。それを聞いて玄侑はきまじめな表情になり、背筋を伸ばした。
「ぎりぎり文字にできないものを残して、精密な言葉に置きかえる。その努力をとことんやって、それでも残っていくものが不立文字でしょう。私は、そこまで追い詰めることはできると思っています」
 そう答えると組まれた両手に目を落とした。その手は白くなめらかで、もう節くれだってはいなかった。
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