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この世界には科学の方法論では扱えないものがたくさんある。西洋科学の方法とは、範囲を限定し、その中をよく調べることだ。ロケットを月へ送る場合、地球など惑星や太陽、月の重力を入力する。実際にはそれ以外の力も加わるのだが、誤差の範囲内として処理する。
それに対して東洋医学は全体のつながりを重視、目が悪ければ肝臓が弱っているとさえ考える。目なら目を徹底的に調べる西洋医学とは別の価値観を持っている。
ところが西洋科学にも新しい流れが出てきた。理論物理学者のデビット・ボームは「現実とは我々が信じているものである。信じているものは知覚に支えられている。知覚するものは我々が探しているものである。我々が探すものは我々が考えるものに依存している」と言う。世界をありのままに見るなんてことはあり得ないのだ。
私が見る映像とは、光の反射で網膜に入った情報が五百万個の円錐(えんすい)細胞と一億個の桿(かん)状体細胞を通して電気信号に変わり、視床下部へ送られ、脳を通して立ち上げた像だ。見えているのはあくまで脳の働きだ。
だから我々が夕方、川辺で足を滑らせ、おぼれそうになると、河童(かっぱ)を見る可能性がある。アメリカ人が同じ経験をしても河童は見ない。それは脳に入力されている文化的蓄積のせいだ。
なぜそうなのか、量子論の発達で分かってきた。十九世紀には光は波だと言われていたが一九〇五年、アインシュタインが光は粒子だと主張した。実験を繰り返すうち、波だと考えなければ理屈に合わない実験結果と粒子だという結果の両方が出た。ここで大事なのは粒子は観測しないと粒子としての姿を表さないということだ。観測しなければ波として存在する。粒子を求める人間が観測した時、初めて粒子としての姿を表す。つまり客観的な物体があるのでなく、私と物体の間に起こっている出来事があるのだと分かってきた。
ものごとが我々に認知できる姿で現れることを仏教で「色」という。その本体はすべて波動だという考え方が「空」だ。西洋科学は「色」にこだわってきた。しかしそれでは世界の実態は解明できない。最先端の物理学者たちは今、東洋の考え方を学んでいる。
仏教に「諸行無常」という概念がある。一時も止まらず世界は変化し続けているということだ。でも我々の頭は、対象を固定しなければものを考えられない。その時使う道具が言葉だ。だが、言葉で固定すれば生きた現実も、たちまち動かない死骸(しがい)となる。仏教の修行とは、「色」という死骸を捨て、生の現場そのものの中に入ることに尽きる。
そのためには言葉が浮かばない状況を作るといい。音楽や映像に没入したり、お経をあげたり。お経は言葉だが、暗記すれば意味を考えない。意味や価値判断が我々の生命力を抑圧する。
人間はつい、自分の思った通りに生きようとする。だが、大脳皮質が考えることなどたかが知れている。世の中には思ってもみなかったことがあふれていて、それを「縁」と受けとめる生き方の方が楽しいはずだ。
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