SAPIO 2005.12.28/2006.1.5


その常識は、日常と信仰が隔たることのない生活の美しさに裏打ちされたある種の確かさを感じさせ、とてつもないバラエティに富みながら、自然に対する畏怖において共通します。


「例えばこの、雌牛の膣に直接顔を押しつけて息を吹き込み、子宮を刺激してミルクを出させようとしているナイルの少年は次のカットではその雌牛の尿で髪を洗っている、我々はドキッとする。でもドキッとするのはそれを不潔と思う自分にドキッとするわけで、他の動物や自然に対して人間が優位にあるかのような傲慢さを、我々は彼らの常識の前にして恥じるのです。
 確固たる自己を想定し、これを揺るがしかねない環境として自然を捉える西洋型の宗教では、過酷な自然は脅威であり、征服すべき対象です。しかし東洋型の宗教では、仮にいるこの私と環境が縁あって出会い、生成された"出来事"としてすべてを捉えますから、自分というのも自然との混合物にすぎない。そこに自然をコントロールするという考えがあろうはずもなく、過酷な自然はむしろ、それに応じられる幅を広げ、揺らがない"信"が立ち上がる土壌となる。
 もっとも日本は東洋にありながら、今では、"自然を支配する陣営"に与(くみ)していますからね、克服不可能な自然が彼らに神頼みをさせるのだなどと、不覚にも考えるかもしれませんが」


野町氏がとらえた、祈りの風景もさまざまです。チベットの聖地ラサをめざし、実に1800kmもの距離を五体投地、つまり手も足も胸も腹もすべて投げ出し、地を這ってゆく巡礼たちの筆舌を絶する表情。メッカに赴き、または「星の巡礼」を遂げ、それぞれの神との約束を果たした男が女が、感極まって流す涙の静かで美しいこと。


「宗教における難行、苦行とは、いわば大脳皮質がまったく役に立たないような単純で無意味な行為をあえて繰り返すことによって、左脳的認知の支配下でより意識的・合理的に生きようとする人間の理性を、ある意味では嘲笑する行為かもしれない。
 五体投地という祈りの凄まじさにもちろん私の目は釘づけになる。しかしながらそうした激しい行為ではないところにある人々の祈りをも同時に、本書に感じるんですね。特に、目です。子供に乳をやる女の目。飢餓のエチオピアで衰弱していく母親に寄り添う痩せた子供の目。いずれも祈りを宿す目の強さだろうと。その、形には表われない祈りの心をも野町さんのレンズは捉えている」


ところで祈るという行為を禅宗ではどう考えるのですか。


「祈る、という言い方はあまりしませんが、日々経を上げ、坐禅を組むことも、あるいは祈りに相当するかもしれません。
 坐禅を組み、自分を空っぽにする、つまりそれは"通路"になるということで、主観も客観もない、私も自然もひっくるめた世界の通路になりきること。祈りというと、かなわない何かをかなえようとする行為のように思う人がいますが、そんなのはおねだりといってね。本来の祈りには自分の都合どころか、自分という主体さえない、通路として心身を開け放った状態が"祈る"ことだろうと私は思う。
 そして最も純粋で原初的な祈りは、祈る対象をことさら必要としない。彼らが祈る相手も、祈る内容も、たぶん生活のなかにあたりまえに全部あるんですよ。というと、いや、偶像を拝んでいるじゃないかという人がいそうですが、そういう知的な人たちには考えもつかない、祈りの原型のようなものを、本書では何度も見せつけられた気がします」


そう考えながらあらためて本書をみると、人々の祈りを妨げるものは宗教の別でも厳しい自然でもなく、効率的で一様な世界をめざそうとする、日本を含めた先進を自負する国のあり方にも見えてくる。野町氏は書いています、<排他的な一神教の世界観を源流とする弱肉強食の競争社会の行く末に、はたして未来があるのだろうか>と。


「いわば地球上の無数の価値観に巡礼を果たした本書は、多様な文化、多様な暮らし、多様な神との多様な関係を、私たちが愛するためにあるともいえる。
 そしてその目的は見事成功していて、このままドルと英語に覆われていいのか、絶対にダメだという思いをあらためて強くしましたし、今や私は被写体となった人々の目を、そこにある祈りを、多様な装束や儀式を何とか守りたいと、坊主は坊主のやり方で祈るばかりなのです。
 いや、しかし、祈る姿というのがこうも美しいとは 人間がこんなにも美しい生き物だったなんて、知らなかったなあ」

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