たとえば、当時は俳句をやるときはこの名前、絵を描くときはこの名前と、いくつもの雅号を持つ人がいました。江戸時代は、自分を限定しない生き方がむしろ普通だったんです。
仏教でも一人の人間のアイデンティティーを定めることは本来しません。なぜなら、人は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道という六道を輪廻すると考えますから、いい人・悪い人と峻別することも難しいし、性格判断のようなものも意味がない。
しかし、欧米という個人主義の社会では一人ひとりがしかるべきアイデンティティーを確立することが人生の目標になってきます。そういう考え方と儒教的な行動の美学が結び付いて現代に至るまでわれわれを縛ってきたわけです。明治人によくある、晩節を汚さない生き方もそういった背景があってのことでしょう。
そういう自己限定のきつい生き方をしてきた人ほど、限定が解除された時のショックが大きいのです。たとえば、会社人間としてずっと自己制御してきた人は、退職後の生き方に迷うことが多い。
ですから、ある年齢を超えたら、自分に課してきた限定を少し緩めてあげるような生き方をしてほしいですね。もちろん、若い頃は儒教的な、頑張って何かを実現する、という限定した生き方は必要です。しかし、その限定した方向性はあくまでも仮のものだということをどこかで認識しておくべきではないでしょうか。
色々な自分を出していくためには「何か一つ新しいことを始めよう」と思えばいいんです。「自分を変えよう」としてはいけません。そのためには、それまでの人生を総括しなければなりませんから。
ときには坐禅を組んでみるのもいいかもしれません。坐禅を組めば、年齢も地位も男女も関係なくなってすべてを脱ぎ去ることになります。自分の中に眠るもう一人の自分に会えることがあります。坐禅とはいわば本質自我に出会う体験なのです。