『般若心経』には【不生不滅】とありますが、生まれたり、滅したりするという認識も、観念です。「人が生まれる」ということも、その前には父親の精子と母親の卵子という存在があったわけで、何もないところから人やモノが生まれてくることはありません。
「宇宙はいつ生まれたのか?」と、弟子に質問されたお釈迦様は、黙って答えようとしなかった。これは有名な釈迦の”十難無記”の1つですが、始まりも終わりもないというのが仏教の考え方です。
科学の世界では、宇宙の始まりは「ビッグバン」だと言っています。が、科学というのは、全体性から一部を切り取り、始まりと終わりを想定して、その中でモデリングすることによって成立する学問です。始まりがあるという発想は「神が世界をつくられた」というキリスト教の影響で、仏教ではビッグバンで宇宙が始まったという考え方にはなりません。
ここから始まりだ、ここで終わりだ、ということを考えているのは、結局はわれわれの脳にすぎない。しかし、人間は脳を使って生きていくしかない。だからこそ、観念にとらわれない状態が大切になるわけで、その状態を表しているのが【行深般若波羅密多時】(ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー)なんです。
何かを智慧のある状態で行じて、いわゆる”三味”になっているとき、頭の中は右脳が優位になり、脳波にもリラックス状態を示すα波が表れます。たとえば絵画や音楽を、知識や情報に左右されずに、純粋に味わっている時がそうです。
【無眼耳鼻舌身意】(むーげんにーぴーぜつしんにー)【無色声香味触法】(むーしきしょうこうみーそくほう)とうのは、目、耳、鼻、舌、触覚、そして心は、固定的な姿を持っているわけではなく、それぞれが感受したことを絶対化して頼ってはならないということです。感覚に身を添わせ、決して言葉に置き換えたりせずに、ものごとを受け取る。それが三昧ということ。三昧の状態で【色】から解き放たれると【
※注 けい礙(けいげー)】、つまり「心の引っ掛かり」がなくなり、錯覚や思い込みから遠く離れることができる

というのが、【遠離一切顛倒夢想(おんりーいっさいてんどうむーそう)】という部分なんです。