06「女性自身」光文社7月18日(7月25日号)
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 ところで、坐禅がブームだとか、ダイエットのために禅寺に行くとか、「禅」とは日々なんとなく見聞きする機会の多い言葉だが、本書を読むと、そういったことのほとんどが禅の精神の、上っ面(つら)だけをなぞっていることに気づく。
 この禅ブームについて、玄侑さんは、
 「みんな合理性の限界を感じているのでしょうね」
 と分析する。
 すなわち、今、我々が生きている時代は個を前提にして「こうしたい」「ああしたい」があり、「そのためにはどうすればいいのか」を追求する。だが、個とはエゴの塊であり、エゴを追求したところで、どこまでいっても幸せには向かわない。
 このことを玄侑さんは工学用語を使い「プロジェクションとコントロール思考の跋扈(ばっこ)」と説明してくれた。
 「何かを計画、つまりプロジェクトを組んで、それが実現できるように事態をコントロールしていく。本来、我々の頭程度で考えられるプロジェクトなどたいしたことはないのに、“こうありたい”をあまりに過大に考えすぎてしまい、その歪(ゆが)みが現れてきているのではないでしょうか」
 教育現場で考えればわかりやすいかもしれない。
 教師が子どもに「毎日挨拶(あいさつ)しよう」と教える。子どもは「どうして挨拶しないといけないのですか」と尋ねる。ところが説明する先生も「どうしていけないのか」は知らない。だが、持っている知識だけで必死に説明しようとしてしまうので、本来の意味がものすごく矮小(わいしょう)化されて伝えられる。子どもはその欺瞞(ぎまん)を見抜くので、この「挨拶しよう」は、どんどん本来持っている意味が薄れてしまう……。
 「こういった“型”に宿った力は、そんな浅薄な理解で説明などできるはずもないんです。なぜするか、などわからなくても、とにかく型にはまってやってみる。それが禅道場のやり方でもあるのですが、そうしているうちに、じわりじわりと本来持っている意味が染(し)み出して伝わってくるんです。それがいい。
 世間の人は世の中のたいていのことは説明できると思っているが、説明できる人生や時間なんて、つまらないじゃないですか」

 まあ、そりゃそうなんだけれど、そうそう悩んでいる時間がないから誰しも焦り、答えをほしがるわけで……と内心クドクド考えていたら、もちろん見抜かれてしまった。
 「すっきりするような答えがすぐに出ると思うこと自体、無理があるんです。禅問答などがまさにそうなのですが、正答があるわけではないんですね。その問いに対してあなたが答えたことのなかに、あなたがすべて出ているなら承認もされる。だから、自分の場合はどうなのか考え続けることが大事なのです」
 ロジックを組み立てて真理を追究する禅は、仏教というより哲学のようで、何でもノリで答える昨今の日本人にこそ必要ではないかと記者は考える。
 「禅道場では強制されつつも自由がありました。そこから考えると、枠組みもないところでの自由は本当に精神の自由をもたらすのか。そんなことを考えるきっかけになれば嬉(うれ)しいですね」
 玄侑さんの言葉を聞きながら居住まいを正し、凛(りん)とした気持ちで、もう一度掛軸を見た。なんだか清々(すがすが)しかった。

サプリな本屋さん

saigo
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 そうですねえ……最後に読みたいのは、やはり自分が書いた『アミターバ〜無量光明』でしょうか。これは死ぬ2ヶ月前から3日後までを本人の視点で綴った小説です。
 やはり自分が死ぬときに、ここで書いたことが正しかったのかどうか、確かめないといけませんしね(笑)

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