06 初出:「Voice」(ボイス)11月号 通巻347号 PHP研究所 10月10日 p1
Voice November,2006

玄侑宗久(作家・僧侶)
本来言葉は因果律に則らないと人の理解を得ることは難しい。
しかし、言葉という道具を使いながら、
因果の及ばない時間も書けると思いますよ。

[聞き手]尾崎真理子(おざきまりこ)ジャーナリスト・読売新聞文化部記者

僧侶とは生の専門家


<「手を抜く」というのは嫌なのです>と本書のなかできっぱり述べていらっしゃいましたね。年中無休で私服はもたず、福島県三春町の福聚寺副住職として、檀家の法要にもできうるかぎり出向かれているとのこと。そのうえ今年はほぼ毎月のペースで新刊を出されています。養老孟司さん、村上和雄さんをはじめ、対談のお仕事も多くこなされ……。どれほどの密度で毎日お過ごしなのですか?

玄侑
 私にとって書くことは消費ですね。それに対してお経を唱えたり、坐禅をするのは充電。檀家の人と話すのも心が和んで好きですよ。だからバランスがとれて、疲れないのだと思います。ただ作家としては、ちょっと胡散臭さが足りなくなってきたという気分はあります。仏教とか禅にまつわる解説的なロジカルな文章を多く書いてると、どうしてもそうなってくる。だから九月に出た『現代語訳 般若心経』(ちくま新書)で、仏教関係の本はいったん小休止することにしました。


すると、『お坊さんだって悩んでる』は、五十歳になられた一つの区切りのようなご本でしょうか。主に全国、各宗派の僧侶から寄せられた、きわめて現世的、具体的な難問に回答されている問答集。仏教雑誌の連載が一冊にまとまったものですが、それぞれの相談にほんとうに真摯に応じていらっしゃいますね。急場凌ぎではない、生き方の根本を説かれている。覚悟のいる明答にしてご名答ばかりです。しかも上から押しつけるような説教ではなくて。

玄侑
 こう考えるべきだ、という答えは何かを後ろ盾にしたとき、まあ、私の場合はお釈迦さまとかある宗派がこういっているということを背景にすると、強い口調で伝えられるんでしょうけど、それと重ならない自分というのも居ましてね。どうしても教え諭すような口調では書けなかった。
 自分の意識としては、禅宗の坊さんであることはたんに下着を着けただけで、あとは上に何を着ようが本人に任されているという感じ。実際、禅宗の坊さんには歌手も考古学者もいる。もう亡くなられましたが、国際ボランティアの先駆けとなった「曹洞宗ボランティア会」(現在の「シャンティ国際ボランティア会」)を結成した有馬実成さんのような方もいらしたわけです。
 私の場合は自分で選んだ上着が小説家なのですが、それでも僧侶ほど幅広く生死や病気、お金にまつわるテーマを与えられる職業はありませんね。僧侶とは渾然とした生の専門家である、と考えています。


宗教家でしかも作家となると、かなり大胆な発言、反骨的な姿勢が許容される、というか期待されるのではありませんか? 天台宗権僧正、瀬戸内寂聴さんの直言も迫力ありますし、カトリック信者の故遠藤周作さんや曽野綾子さん、それぞれ独特の説得力と影響力をもった方々です。

玄侑
仏教のなかでも、私が臨済宗という宗派にいることは大きいでしょうね。他の宗派だと、もしかしたら小説家にもなっていないかもしれません。ピラミッド型の組織ですと、個人の意見が表出しにくいですよね。禅宗は自分の思ったことをいうのに憚るところがあまりないので、非常に精神衛生上いい。本山に行けばそれなりのセクト意識はあるんでしょうが。


それにしても、よくぞこんなに答えにくい世間の問題に応じられたな、と思います。<オウム真理教の麻原教祖の死刑を、どう考えたらよい?><イラクに派遣される自衛隊員に何と言ったらよい?>など。殺生をいさめる仏教者としては、死刑も戦争も、「反対」が大前提となるのでしょうけど。

玄侑
 難しいですね。仏法と王法、あるいは仏法と世間法にはズレがありますからね。私がこの本でいいたかったのは、国家が提供する価値観を絶対視したり、鵜呑みにする必要はないということでした。私自身、自分の心のなかの日本と、政治的国家としての日本は別だと思っている。ただ国家としての統一的な顔は必要だから、やっぱり国家も立ててあげないと。そんな柔軟性を大事にしていったらどうかと申しあげているんです。
 戦国時代までのお寺は、いわゆる民衆の“駆け入り”だけでなく、いわば政治犯的な人も大勢かくまっていました。キリスト教社会にも「のがれの町」はあったし、歴史学的な用語では、そんな治外法権地区をアジールと呼んでいますね。どの時代の社会にも、法の及ばない緊急避難所は必要なんだと思います。


これまで日本は、そういうあいまいな場所を許す、矛盾を許容する国でもあった気がします。最近はそうではありませんね。靖国神社をめぐる言論に表れたように。

玄侑
 ええ。是か非かという二元論に持ち込まれていますよね。小泉首相の参拝を機に、あいまいさを許す発想がない国に包囲されて、賛成と反対、どちらなのだと無理やり答えを迫られている。それを焦点として取り上げるマスコミもよくありませんね。

 岡倉天心も書いていますが、鎖国しているうちは野蛮な国といわれ、外国と戦いはじめて、初めて日本も文明国になったといわれた。そういう近代国家のシステムとして、国のために戦った人を祀る装置を各国が設けているのは確かですし、靖国神社はまさにその装置としてつくられたものでしょう。それは私から見れば伝統的な日本でもないし、日本らしいとも思えないのですが。



敗戦の時点で、神社ではなく靖国寺としてしまえばよかった、とも本書でお書きですね。

玄侑
 はい。神社であるために多くの人は国家神道の亡霊を感じてしまうのではないか、と。これからは宗教施設ではない、慰霊の場を設けなければならないという提案も上がっているようですが、それではしかし政治的施設になってしまい、永続性が確保されないと思います。
 重ねていいますが、国家だって世間だって間違いを犯すわけです。だから振り回されすぎず、自分の人生を処していくために、私自身はクッションとして仏教や禅の考えを参考にしている。そのうえでしかし、実際にイラクへ派遣される人には、結局「死ぬなよ」としかいえないでしょうね……。

 民間人の犠牲は何人までやむおえないのか、自衛隊から犠牲者が出たとして、それが何人になったら撤退も考慮するのか。政治的には具体的な数字で答えを示してほしいと思いますが、むしろそういうところに限って、ますますあいまいなまま放置されていくのでしょう。


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