06 初出:「Voice」(ボイス)11月号 通巻347号 PHP研究所 10月10日 p2
Voice November,2006
私はたんなる通路かな


対照的に、現世的、具体的な判断、救いの道が性急に宗教へ求められている気がしてなりません。質問のなかにも、そんないまの時代が透けて見えるようでした。尼崎で昨年、痛ましい列車脱線事故が起きましたが、なぜ、同じ電車に乗っていて運不運があるのか。人生は善悪ではなく、運ではないか。そこまではいいとして、<運がよくなるお寺のお守りや身代わりお札なども、持ってたほうがいいんでしょうね>となってしまう。

玄侑
 この場合、問題は人知の及ばない世界にわれわれがどう関わることができるか、そして、祈りは運命にどう作用するのか、ということになります。私はどんな事態が起こっても、それが天命、つまり制御できない自然な現象だと納得するためのアイテムとして、お守りやお札があるのだと思っています。自分に不利益を及ぼす事態に遭遇したとき、それが誰か他人のせいだと思うと非常に不自由な思いにとらわれてしまう。尼崎の列車事故も運転士に非があるとされるわけですが、その時間、その電車、その車両に乗っていたそれぞれの犠牲者のその日の偶然、そんな偶然と必然の、無数の関係性のなかの出来事だったと思うのです。
 だからこの本では、<お守りやお札を見たら、世界の中心が自分でないことを確認し、そして大きな流れを肯定的に受け止め、その流れそのものである「天命」や神を信じる>。そうすることで誰かのせいにするという、きわめて不自由な思いから自由になってほしい、と回答しました。


そうですね。このご回答はとくに深く心に残りました。<全ては幅広く息の長い全体性の中の出来事>だと。お守りの底に仕込まれたほんとうの祈りを思い出して自由になれ、と。ここでいわれている<「天の眼」で見れば、よりよい方向へ向かうためのプロセスにすぎない>という考え方は、最近のスピリチュアルブームの言葉ともちょっと似ているのですけど。

玄侑
 「スピリチュアル」を標榜されている方たちは、心理学も踏まえたうえで、明確に二元論にしてしまう人が多いのでは? そこが私は不満なのですが、だからこそわかりやすくてブームになっているんでしょうね。


以前書かれた長編『リーラ 神の庭の遊戯』(新潮社)は、霊的な気配が人々の思いをつなぐという、不思議な広がりを感じる現代小説でした。けれども玄侑さんの小説は、因果を感じさせながらも、あくまでいま生きている人間の選び取る意思を物語の基本に置いていらっしゃるように感じます。

玄侑
 私たちはよく、いまこの喜びがあるのは子どものころのあの経験があるからだ、というように、結局、因果律でいくつもの事柄を納得がいくように結びつけて考えていきますよね。そうやって時代や歴史も解釈していく。けれども禅というのは「因果一如」。また道元禅師は「修証一等」だといっている。修行と悟りは一つで等しい、という意味なのですが、つまり修行したから悟ったんじゃない、いまはいまで独立している、因果で結ぶなということです。
 われわれが坐禅したり瞑想や念仏のときに感じたりするのは、極端な言い方をすれば「永遠なる時間」なんです。いわゆる時間の流れをつくっている脳機能がまだ働きださない状態に自分を留めておくというのが、瞑想や坐禅の技術ともいえる。感覚はするけど知覚までもっていかないという、かなり苦しい努力をしないとできないことなのですが。ここで生じるのが知覚しないという自由。知覚には時間も概念も絡まってきますから、歴史からも因果律からも自由になれる。これほど自由なひとときはないですね。


そういう時間を味わってみたいですね。でも小説ほど、因果でこの瞬間を語りがちな形式もないように思うのですが。

玄侑
 そうですね。本来言葉は因果律に則らないと人の理解を得ることは難しい。しかし、言葉という道具を使いながら、因果の及ばない時間も描けると思いますよ。小説を書いていてラストに近くになると、ほとんど自分が書いてる気がしない、ということがよく起こるんです。書いている私はたんなる通路から、という感じ。自分のなかでもそんなことが起こるわけですから、言葉を使いながらも因果だけじゃないものを表すことはできるんじゃないかと考えているんです。


それはすごい。たしかに芥川賞を受賞された『中陰の花』(文藝春秋)や『アミターバ 無量光明』(新潮社)には、なんとも不思議な時間が流れていますね。登場人物にうっすらと後光が差しているような。悠久の時間の流れに含み込まれた因果のようなものも、玄侑さんの小説から受け取りますよ。

玄侑
 そうですか。ああ、やっぱり小説って面白い。長編小説が書きたくなってきますねぇ。


でも、『禅語遊心』(筑摩書房)などを読みますとね、仏教の検索エンジンのような方だと(笑)。解説書や講演でその知識を分けていただきたいと要望が殺到するのももっともだと思います。

玄侑
 禅宗、禅語というのは、いろんなところから引っ張ってきて、言葉を道具にしちゃうんですね。論語だって漢詩だって、禅の気持ちを表わす道具にする。そのくせ言葉を馬鹿にしているから、主たる経典は置いていない。
 そして言葉を利用しながら言葉が表す因果を超えることをめざしている。道元禅師という人は、かなり意識的にそれを行なった人だと思いますね。『正法眼蔵』を一〇〇巻まで書こうとして結局八七巻までで終わりましたが、彼にとっては悟りだけでは意味がなかった。悟りの境地を「身心脱落」といいますが、その意味は概念でつくってあった「私」の輪郭が崩れ落ちて、全体性のなかに抜け落ちること。その脱落した状態から、もう一度全体性と関係を切り結んでいく。それが現成、現実に成ることで、生きるということはその場その場でいちいち現成していくことなんですね、その作業がなければ生きていることにはならない。悟っても何の意味もないと道元禅師は考えたのです。その作業が『正法眼蔵』だったと思いますね、書くという執念を私はそこに見るんです。

いちばん苛立っているのは政治


その境地は、言葉を超えたものだとしても、やはり書いた言葉でしか伝えないわけですね? こちらの理解が及ばなくて申し訳なくなりますが、なんだかありがたい気持ちになってきます。
 玄侑さんは仏典や大学で専攻された中国文学だけでなく、脳科学や心理学へのご関心も深い。『禅的生活』(ちくま新書)に引用されている本から、そう思いました。仏教の教えも現代科学とともに日々進化している……。

玄侑
 悟りという現象も、脳機能としてかなり科学的に説明されつつあるわけです。しかしそれでも解明されないところを、われわれ僧侶は自信をもって深めていけばいい。
 最近、私自身は土地に染みついた力というものに興味がありますね。人の思いと一体になった土地の力。「風水」への関心も高まっていますが、もともと禅宗のお寺には道教系の風水が流れ込んでいたりもするんです。その場所のもっている全体性、人工的にそれが損なわれて生じる災い、それから人によって、場所から与えられる作用も違ってくるのだ、というような人知を超えた土地の力について想いを深めてみたい。できれば複数の視点から語る長編で。


とはいえ、小説に専念されることは、やはり許されないかもしれないですね。いま、玄侑さんが時代から要求されていることと、個人的な願望はもしかしたら重ならないかもしれない。

玄侑
 そうかもしれませんね。ほんとうは、いちばん苛立っているのは政治に対してです。いまの政治に対する不満や嫌悪感がものすごくある。昔は僧侶がそんなに政治や経済から切り離されていなかったでしょうから、こういう地団駄を踏むような気持ちはなかったかもしれない。でもいまは実社会から切り離され、手足をもがれたようになっている優秀なお坊さんが、周りにも大勢いるんです。彼らは発言しないじゃないか、といわれますが、訊きにくる姿勢が失われている。そういう意味で、私が背負っている部分はけっこう重いという意識はあります。


結局<手を抜くということは嫌い>。「禅的生活」を続けていかれるのでしょう。
この著者に会いたい

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