06 初出:「中央公論」12月号 通巻一四七一号 中央公論新社 11月10日 p1
2006 November,Launched in 1887
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守護霊、前世療法、占星術bar
オウム真理教事件の風化とともに、
再び神秘世界に引き込まれる現代人が急増している。
この非科学的な世界の魅力とは何か。その心を繙く

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常に、自分らしく生きなければbar。そんな強迫観念に取りつかれ、
日本人は疲れている。自分らしくない自分にも存在理由を与えてくれる
霊能者の語りは、あまりに蠱惑的だ。

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 gsここ数年、人々が霊的な存在に関心を持ち始めていると実感している。既存の三大宗教などとは違うポジションを取り、霊を語り、癒しを与えるスピリチュアル・カウンセラーが続々と登場し、人気を博しているようだ。作家の五木寛之さんと宗教哲学者である鎌田東二さんの対談集『霊の発見』も売れている。わたし自身、マスコミ関係者から、こうしたスピリチュアル業界の著名人と対談する依頼も数多く舞い込むようになった。
 なぜ、霊、もしくは霊能者への関心が高まっているのか。わたしは、この傾向は、科学技術の進歩と相俟っていると思っている。たとえば、今、世界のいたるところにあらゆる電波が飛んでいる。しかし、それは受信機がなければ何も見えないし、聞こえない。ところがひとたびラジオやテレビなどの受信機を設置し、スイッチをひねれば、それらはたちどころに音や映像として目の前に立ち上がる。今、この机の上にパソコンを広げ、インターネットにアクセスできる環境を整えれば、われわれは途端に情報の海の中に漕ぎ出すことになる。見えないけれど、確かにある
barという感覚は、現代の人々の共通認識になりつつある。実はこれは霊の世界に酷似している。
 あらゆる不思議な現象に名づける文化は昔からあったが、科学は名づけるだけでなく理論づけてきた。要するに、科学技術の進歩は、不可視のものをあぶり出し、人々が霊魂の存在を信じる素地を皮肉にも形成していったのだと思う。今、霊能者が注目を集めるということと、科学技術の進歩というこの二極の現象は、人間の心理的な関係において、決して齟齬をきたすことがない。矛盾がないのだ。
 インターネットの上の掲示板「2ちゃんねる」や、ブログなどに見られる無記名の誹謗中傷など、悪霊そのものだと考えても何ら違和感がないのではないか。
 殊に近年、科学という学問自体が、目に見えないものを対象にし始めていることにも関係があるだろう。素粒子物理学などが分かりやすい例だが、見えない粒子や波動という不可視のものが科学分野で語られるということも、霊を語るうえでは好都合となるはずだ。スピリチュアルと分類される霊能者などは、背後霊や守護霊を科学的な真理を語るような口調で「いる」と断じてみせる。それを人々が「いるのだ」と納得してしまう背景には、科学が見えないものを名づけて論じるのと似た構図があると思う。
 しかし、いかに科学が進歩しようとも、永遠に残る謎というのがある。それが前世であり輪廻なのだ。だから、大半の霊能者の話はここに集中する。今も昔も、この点は変わらない。
 不思議な現象というものは確かに起こりうるだろう。幽霊も出るであろう。わたし自身、何度も科学では説明できない不思議な体験をしている。こうした超常現象があること、遭遇することをわたしは否定しない。しかし、この超常現象については、あまり名づけすぎないことが大事なのである。語ることが神を冒涜(ぼうとく)することになる
barとしたのが古来の日本の神道なのだ。
 一方、今、流行しているスピリチュアル、つまり、前世や守護霊などを語る霊能者は、あらゆる超常現象にあれこれと名前をつけて説明し、納得させようとする。しかも、あたかも神のような断言口調だ。この点が、最も大きな特徴の一つであり、また、神道、仏教などとの違いだと思う。分からないことを分からないままにさせておかないというありように、宗教者としてはきわめて強い違和感を覚える。

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 アルカイック・レリジョンとしてくくられる原始的な宗教には、そもそも、安易なシンボリズムを警戒する意識が存在する。神道などはこの代表格であり、徹底的に言葉で説明することを避け、体系的な教義・経典すら存在していない。語ることは神を冒涜(ぼうとく)し、全体性を壊すことにあたると考える「言挙げせざるの教え」なのだ。
 神道では、我々が感知することのできない世界から、我々の世界への何らかの神の啓示を「おとずれ」と表現する。何かの音の表象があるということだが、音そのものは意味を持たないから、それによって、全体性を崩したりはしない。
 また、神道の説く「やほよろづの神」というのも、同様に全体性を壊さない。地上にあるすべてのものに神が宿り、全体性というものを象徴的に神と呼んでいるわけだから、なにか絶対的な神というフィクションを作り出さないで済むし、たとえ、何か不思議な超常現象があったとしても、その現象自体に名前を与える必要も生じない。すべてに神が宿るのだから、それ以上、一つの現象にひきずられることもなく、全体性を保つことができる。これが神道の教えの中核にあることを指摘しておきたい。
 一方、仏教の方は、組織化する過程において理論化し、また大衆化する過程で、フィクション作りに力をおいてきた側面があることは否定できない、世界的に信者を得ている宗教には、たいていの場合、大いなる虚構を創り出し、それを信じるように促す傾向がある。形のないものに形を与え、言葉で説明すれば、布教活動を進めるうえで大きな効果を上げるからだ。しかし、仏教の場合、その虚構は、信者本人が自分自身の人生について考えるためのものであるという考え方が根本には存在している。
 仏教の開祖であるブッダは確かに実在した。しかし、礼拝の対象として作られた無数の仏像は、人間の創造物に過ぎない。そして、こうした仏像はすべて人間の心に還元できる。たとえば「阿弥陀如来」は、人間が最大限に能力を発揮し、光り輝いている様を表現したものだ。自分の命を正しく働かせることによって、人の病をも治すことができる状態を「薬師如来」と表現し、さまざまな表情で、その場その場で立ち現れてくる応病与薬、臨機応変な人間のありようを「観音様」とした。仏像は、人間が最大限に能力を開花した時のバラエティーとして表現されたシンボルであり、フィクションなのだ。
 衆生が善悪の業によって赴き住む六つの迷界、即ち、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天」も、迷いと悟りの世界を分類した十界も、人間の心のありようを分りやすく表現したフィクションである。だから、僧侶は、絶えず、「これらは虚構である」「これは、あなた自身である」と説かなければならない。そして、信者は自分自身の人生について思索しなくてはならないのだ。
 しかし、こうした説法は、すべての信者に受け容れられるわけではない。わたしなども日々、信者さんと向かい合う中では、「阿弥陀様ですね。ありがたいですね」と手を合わせてみて、終わらせることも多々ある。
 こうして、阿弥陀如来や薬師如来像は、あたかも実在するキャラクターのように一人歩きを始めてしまったのが現状だ。名前をつけると、現象は立ち上がる。あたかも、実在するかのように。だから危険なのだ。ただ、それは本来の仏教の教えではないことを確認しておきたい。

toku

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