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アルカイック・レリジョンとしてくくられる原始的な宗教には、そもそも、安易なシンボリズムを警戒する意識が存在する。神道などはこの代表格であり、徹底的に言葉で説明することを避け、体系的な教義・経典すら存在していない。語ることは神を冒涜(ぼうとく)※し、全体性を壊すことにあたると考える「言挙げせざるの教え」なのだ。
神道では、我々が感知することのできない世界から、我々の世界への何らかの神の啓示を「おとずれ」と表現する。何かの音の表象があるということだが、音そのものは意味を持たないから、それによって、全体性を崩したりはしない。
また、神道の説く「やほよろづの神」というのも、同様に全体性を壊さない。地上にあるすべてのものに神が宿り、全体性というものを象徴的に神と呼んでいるわけだから、なにか絶対的な神というフィクションを作り出さないで済むし、たとえ、何か不思議な超常現象があったとしても、その現象自体に名前を与える必要も生じない。すべてに神が宿るのだから、それ以上、一つの現象にひきずられることもなく、全体性を保つことができる。これが神道の教えの中核にあることを指摘しておきたい。
一方、仏教の方は、組織化する過程において理論化し、また大衆化する過程で、フィクション作りに力をおいてきた側面があることは否定できない、世界的に信者を得ている宗教には、たいていの場合、大いなる虚構を創り出し、それを信じるように促す傾向がある。形のないものに形を与え、言葉で説明すれば、布教活動を進めるうえで大きな効果を上げるからだ。しかし、仏教の場合、その虚構は、信者本人が自分自身の人生について考えるためのものであるという考え方が根本には存在している。
仏教の開祖であるブッダは確かに実在した。しかし、礼拝の対象として作られた無数の仏像は、人間の創造物に過ぎない。そして、こうした仏像はすべて人間の心に還元できる。たとえば「阿弥陀如来」は、人間が最大限に能力を発揮し、光り輝いている様を表現したものだ。自分の命を正しく働かせることによって、人の病をも治すことができる状態を「薬師如来」と表現し、さまざまな表情で、その場その場で立ち現れてくる応病与薬、臨機応変な人間のありようを「観音様」とした。仏像は、人間が最大限に能力を開花した時のバラエティーとして表現されたシンボルであり、フィクションなのだ。
衆生が善悪の業によって赴き住む六つの迷界、即ち、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天」も、迷いと悟りの世界を分類した十界も、人間の心のありようを分りやすく表現したフィクションである。だから、僧侶は、絶えず、「これらは虚構である」「これは、あなた自身である」と説かなければならない。そして、信者は自分自身の人生について思索しなくてはならないのだ。
しかし、こうした説法は、すべての信者に受け容れられるわけではない。わたしなども日々、信者さんと向かい合う中では、「阿弥陀様ですね。ありがたいですね」と手を合わせてみて、終わらせることも多々ある。
こうして、阿弥陀如来や薬師如来像は、あたかも実在するキャラクターのように一人歩きを始めてしまったのが現状だ。名前をつけると、現象は立ち上がる。あたかも、実在するかのように。だから危険なのだ。ただ、それは本来の仏教の教えではないことを確認しておきたい。
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