また、一方で、個性を大事にするべきだ

という西洋的な思想の押し付けに日本人が疲れたことにも、スピリチュアルの人気の理由はあると思っている。
日本が個性を大切にする教育を導入したのは昭和四十年代だろうか。今では、子供たちは早い時期から、「わたしはこういう人だ」というラベリングが要求される時代になっている。これは、かなり毎日を生きにくくするのではないかと思っている。発現されない自己、発現されない無意識層が多くなるからだ。
毎日の中で、わたしはさまざまな自分を生きている。たとえば、草むしりをする自分、お経をあげる自分、コンピューターに向かって文章を書いている自分というのは、すべてばらばらのキャラクターである。寝ている時と起きている時は、まったく違う自分だ。そして前述の通り、仏教や神道は人間が千変万化することをまったく否定していない。だから、それらの自分を取り立ててばらばらだと感じることもない。より多くの自分が「日の目を見ている」と表現してもいい。
ところが、西洋の人間観では、この人はこういう人であるというキャラクターがあることになっているから、自分らしくないことをしている自分は、「生きていない自分」ということになる危険がある。ラベル以外の自分は、いわば、水子のようなものにあたるのだろうか。
こうして現代人は、生きていない自分、この世の中に出て来られない自分をたくさん抱えてしまい、途方に暮れてしまったのかもしれない。自分らしい自分以外は、日の目を見られないとなれば、それ以外の自分を生きるのは大変に苦しくなるに違いない。発現できない自己が増えているとはこういう意味だ。
では、スピリチュアルはこうした現代的な苦しみにどう対処しているかといえば、この統合できないあらゆる自分を、守護霊や地縛霊、悪霊、背後霊などあらゆる霊を用いて語ることで、自分らしくない自分もすべて理屈立てて統合してしまう。これはすっきりするに違いない。ここにも人気の秘密があるのではないか。
ただ、これは自分そのものが不思議な存在であるということを感じることを阻害する語り方だということは指摘しておきたい。
今、スピリチュアルの大半の消費者が三十代の女性と聞いている。個性教育が導入された最初の世代だったはずだが、この一致を関係づけるのは牽強付会に過ぎるだろうか。
日本ではこの西洋的な人間形成はもはや常識となっている。だから、どんな人でも一旦は、この西洋的な人格形成を目指すことになる。このまま個性信仰が続けば、人々はあらゆる自身の側面を統合し、語ってくれるスピリチュアルのようなもので補い続けるしかないのかもしれない。