「日本人がすごいのは頭が"八百万"(やおよろず)的な思考システムであることです。パソコンのウィンドウズどころではない。これはおそろしく優れたOS(基本ソフト)。しかし残念ながら、現代人はこの思考が欠如しています」
こう語るのは、芥川賞作家で臨済宗のお寺の副住職である玄侑宗久さんである。例えば、宗教。神道、儒教、仏教、キリスト教―伝来するものを拒まず受け入れる。それまでと違うものを認められる。多くのものが並列して対等に存在している、それが"八百万"だ。何でもウエルカムという大容量の基本ソフトゆえ、外国のさまざまなアプリケーションソフトをインストールしてもサクサク使えたのだ。
「もうひとつ日本人が誇るべき文化は、"風流"。花柳界の用語のような印象ですが、もともとは"揺らぎ"という意味の禅語なんです。例えば、めったに笑わない人が笑う。周囲を明るくするその揺らぎの瞬間、"例外"こそが風流。めったにないことを肯定しようという考えです」
ある種のあいまいさや多様性、誤差、「想定外」を受け入れるメンタリティーがそこにある。
かつて江戸幕府は極めてシンプルなルール、武家諸法度で各藩をコントロールしていた。ただ、各藩との"付きあい方"は決して画一的ではない。関ヶ原の戦いで家康と戦友となった武将が治める藩は待遇をよくするなど臨機応変に扱った。武家諸法度という原則は作る。けれど、それだけに縛られず例外も認める。そうして江戸時代はまるく収まったという面もあるのだ。
戦後数十年、日本人は宗教心のないいい加減な国民などと言われることが多かった。だが、この"八百万"と"風流"という独特の文化にもっと自信を持ってよい、と玄侑さんは話す。
ところが最近は、基本ソフトの教育をされない弊害がとみに目立つ。企業や政治、行政など、あらゆる場面で単一化、画一化への流れが強まっている。少しでも原則からはみ出すものは異常、とレッテルをはって排除する。そんな傾向があるのだ。
「

特にひどいのは行政でしょう。例えば、以前長野でパラリンピックが開かれた時。地元の善光寺が車イスで訪れる人のため、本堂に上がるスロープを作った。そのこと自体はいいことですが、官僚がそれを見て全国の寺にスロープ設置を義務づけさせようとしたのはいただけませんよ。一軒一軒の寺が工夫する外観や内観にはお構いなしで、やみくもに画一化をはかる役人たちの愚行です」
勝手に細かい法律や条例を決めて、日本文化が本来持っている多様性を退け、また揺らぎをも許さない。その決まりは想定外のことを予期していないし、臨機応変さも持ちあわせていない、効率ばかりが重視され、自由な発想や脳のヒラメキも妨げていて遊びもない。
最悪なのは、そうした役人のスロープ設置話を「いい話」として記事にするマスコミやそれをまんまと美談として受け取る読者。脳はほぼ思考停止しているのではないか、と玄侑さん。
「幼児の誘拐事件などが起きると、学校などは塀を作ったり、ガードマンを雇ったり、監視カメラを設置したりする。それは防犯や安全のためには必要な対策かもしれません。ただ、少し前まで子供には"自然にふれろ""(帰宅時の)道草もひとつの勉強"と言っていたではないか、とも思ってしまう。いったい地域に開くのか、閉じるのか、今の学校は両立できない2つの命題を同時に要求されているわけです。それに人を信じることと、信じないこと。こんなの両立できないに決まってますから、それならどっちを採るのか、ということですね。二度と事件が起こらないように、とヒステリックにやりすぎては逆に自分の首をしめることにもなる。監視カメラは犯罪者ではなく自分をも監視しているのですからね」