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「ダーナ」(DANA) 佼成出版社 7月20日 2006年 summer 平成18年|夏号
季節だより(3)………お彼岸

の彼岸には、なぜか全国ほぼ一斉に彼岸花が咲きます。温度で咲く花ではないようです。不思議ですね。
 その彼岸についてですが、彼岸とは、此岸を離れたところです。この濁世からすーっと離れて、清浄に美しい花を咲かせるところです。
 分別の世界を離れて、すべてのいのちを慈しむところです。この世ならざる世界を、この世のなかに見ることでもあります。
 この世では、日々、「私」というものの都合ばかりで暮らしています。
 そんな「私」というものがない状態が彼岸です。私の都合を離れ、自然ないのちそのままの世界ということもできるでしょう。
 私たちは、多くの不安にとりかこまれています。「不安だ」というのは、頭に意識があるからなんですね。
 「私」というものは、頭のなかだけに住んでいる。その「私」だけが不安になっているにすぎないんです。
 「体」は決して不安ではない。右足が不安がっているなんていうことはない。左足も安心している。不安がっているのは体ではないんです。もともと、体は自然体なんですよ、自然の一部。不自然なのは脳だけなんですね。
 彼岸のときには、植物の芽が出てくる。春はもちろん、秋もぐんぐんと芽が伸びてくる。
 これは、すべてのいのちがオープンになるからなんですね。いのちが開いているから、出ようとしているものが内側から出てくる。
 彼岸のときには、自分が閉じた存在ではないということを、身体的に感じるんです。
 地球的な地磁気などの影響もあるのでしょうが、ともあれ特殊な状態になるんでしょうね。
 だから、そういう時期に、お彼岸を設定したんですね。
 普段の暮らしでは、「私」が主人公なんです。そのために、本来オープンないのちが、「私」によって閉じられている。
 しかし、お彼岸のときには、いのちが開く。「私」というものが薄くなる。だから、仏教的な理想を実現しやすいときなんですね。
 吉凶という言葉があります。実は、吉と凶の間には、「吝(りん)」と「悔(かい)」という言葉が入って循環しているのです。私たちが「吉」と感じたときには、すでに吉から凶に向かっている途中「吝」の状態です。「凶」と感じたときには、すでに凶の状態を後悔し、吉に向かっている「悔」の状態なのです。彼岸は吉と凶の中間、吝と悔のところにあります。冷静にいのちそのものを見つめるときなのです。
 彼岸には、ちょうど夕陽が真西に沈みます。中国の浄土教の人たちは、真西に太陽が沈む彼方にあるという浄土を観想しました。観想によって、「私」をなくすことができたんです。坐禅もそういう趣旨の行ですね。
 お彼岸彼岸にはお墓参りに行きますが、それは、自分の「根っ子」を確認することなんですね。
 根っ子は陰、枝葉や花が陽です。
 自然界は、そのバランスがうまくとれている。バランスがとれて喜んでいるから、芽が出てくるんです。
 根っ子がちゃんとしていないと枝葉も繁らないし、花も咲かないし果実も実らない。 
 私たちの生活は、自然界とはちがって、陰陽のバランスがとれていません。あっちこっち動いてばかりで、どうしても陽のほうが強くなっています。
 だから、根っ子である陰のほうを意識的に充実させないといけないんです。
 陰というのは、ご先祖さまのことです。自分のいのちの出てきた源のことです。
 ご先祖さまは、どこか別の世界にいるわけではありません。
 私のなかに集約されて存在しているのです。
 先祖の数は、無限ですよ。たとえば十代前で、直系の親だけで千二十四人ですよね。
 その方たちは、ほとんど共通のDNAを抱えています。しかし、私とはまったく違った生き方をした方々ですね。先祖のなかには、優秀な学者もいたでしょうし、手の早い泥棒だっていたかもしれない。
 そういう存在の芽が、全部、私のなかにあるんです。
 私の生き方の可能性として、まだ開花せずに眠っているということもできますね。
 だからお墓参りとは、自分の「根っ子」であるご先祖を通して、わが生き方の可能性の大きさを確認することでもあるんです。
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