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除夜の鐘は、一年間、経験したすべてを水に流す音だといえます。
仏教は、人間の素地はもともと調っていると見ます。生きるために必要な力は、みな具わっている。仏性も具わっている。それが「知足」ということです。
だから、経験や知識という余計なものをすべて払い落として、素地に戻すんですね。なぜなら、積み重ねた経験は、ほんとうに生きるときには、むしろ邪魔になってくるからです。
世間では、経験を積み重ねて、経験を生かすのが素晴らしいといいます。
ところが経験とは、あくまで私中心のものの見方の集合体なんです、全部、私なりにアレンジしてある。なかなかやめられない自己中心的な見方、それが実は煩悩なんですね。経験とはものを見る場合の先入観を生み出します。それが自分をがんじがらめに縛って、「今」の瞬間に自由に向き合えなくなってしまう。だから、すべての経験を捨てて裸になる。そして、「今」と向き合うことが大事なんです。
生きる上で、経験や知識、技術は、必ずしも必要ではないんです。本来いただいた生命力が最大になれば、生きる力は最大になる。そうしたとき、生きる技術も存分に発揮される。生きる技術というのは技術ではありません。それは積み上げることのできない、技術とはよべないくらい臨機応変な「いのち」そのものなんですね。
『般若心経』に「無得」という言葉が出てきます。「無智亦無得」(智もなく、また得ることもない)と。
智慧は、積み重ねた経験では得られない。むしろ、忘れること、脱ぐこと、捨てるところにあるんです。
お釈迦さまも、地位や身分を捨てて、親も子も捨てて、最後に自分も捨てるというところまで捨て続けたんです。
捨て続けていった過程そのものが、お釈迦さまの悟りでしょう。
この人生には、同じことは二度と起こりません。ですが、私たちは過去からの積み重ねで物事を見てしまいます。
何か体験したときに「あっ、これは前にも経験したぞ」と、過去の経験にあてはめてしまう。そうなると、起ったことそのものを、ほんとうには体験していないんです。物事の本質が見えないわけです。
私たちは、連続して流れる「時」のなかで生きています。昨日はこうで、一昨日はこうだったんだから、今日はこうだろう、と想定して生きています。
しかし、これでは「今」という時間の可能性を矮小化し、「もったいない」こと、この上ないんです。
「今」を生きるには、昨日のことも、一昨日のことも、忘れてしまうのがいい。
ある種の三昧の状態のなかでは、「時」というものは流れていないんです。
言い換えれば、音とか景色の変化とか、何事かに没頭したとき、過去に体験したどの「時」にも属さない「時」が流れています。
その「時」のなかで、さらさらと水が流れていくように「私」が洗浄されるんです。そういう時間を、道元禅師は「而今(にこん)」といいました。
子どもの頃は、何事かに没頭して、時間の経つのも忘れて、あっという間に夕方になってしまうことがありました。
けれども、大人になると、没頭することがなくなってきます。多くの経験を積んで、「私」というがっちりした枠組みができてしまうからですね。
本来、具わっている生きる力を発揮するには、その「私」というものを、溶かしてしまう必要がある。すべての経験や思いを洗い流して、初心にかえる必要があります、それが、除夜の鐘を聴く意味なんですね。
音を純粋に聴くことすら、普段の私たちは、なかなかしていませんね。雨音にしても本当は一瞬一瞬違うのに、「しとしとと降っている」「ザーザー降っている」といった言葉でくくって、あとは聴いていない。
この除夜の鐘の音だけに、聴きいってみてください。
ただ聴こえるままになって、一切の判断をしない、聴くだけで、何も考えない。
すると、鐘の一つ目の音も、二つ目も、三つ目も、常に新たな気持ちで聴けると思います。
「一年間を反省する」などといっても、そんな反省はたかが知れています。音を聴きながら、何も思わない時間を過ごせばいいんです。
「ゴーン」という一瞬一瞬変わっていく音の変化そのものに、全身全霊を傾けて聴きいる。
その体験が、「私」というものを洗い流してくれるんです。
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