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「ダーナ」(DANA) 佼成出版社 10月20日 2007年 autumn 平成19年|秋号
(8)………成道会

道とは、お釈迦さまが悟りをひらかれたということですが、それが、「道を成(じょう)じた」と表現されています。
 お釈迦さまは、二十九歳で出家され、林の中で六年間苦行をされたのち、菩提樹の根元に坐して悟りをひらかれました。
 ところで、この悟りとはどういうことなのでしょう。
 苦行中のお釈迦さまは、自分が歩んできたところが、道だか何だか分からなかった。どちらに進んでいいか分からず、試行錯誤を繰り返していたのです。
 そして苦行をやめて、瞑想に入られたことによって、「これが道なんだ」と気づき、「この先もこの道を行けばいいんだ」という、はっきりした確信を得たのでしょう。「このまま歩いていこう」という覚悟をされたのです。悟りというのは、この気づき、確信、覚悟といえるでしょう。
 私たちは、「道を成じた」というと、あらかじめ道があるように思ってしまいます。
 しかし、そうではなくて、これが道なんだと気づき、この道を行けばいいんだという確信を得た時点で、道になるのです。
 だから、成道は「道を成じた」というよりも、「道になった」と言ったほうが、しっくりきます。
 この「なる」というのは、何もなかったところに何かができるわけではないんです。
 花が咲いて実がなる、というでしょう。「なる」というのは、もともとは「生」の字を書くんです。
 たとえば、稲がなるというのは、もともとは「稲が生る」と書きます
 「生る」といっても、何もないところに生まれたわけじゃない。ただ、縁起の中でそうなったということです。
 どういうことかと言うと、桜が咲いて、「この花は、どこから来るんだろう」と桜の木を割ってみても花の兆しはどこにもない。それは適当な温度とか日差しとか水分といった、あらゆる要素の和合が縁になっているからです。
 何か一つの原因だけで、現象があらわれたわけではない。すべては無数の関係性の中で「なる」んです。これが、縁起です。
 そして、お釈迦さまが成じたのは「道」です。
 「この道をこのまま歩んでいけばいいんだ」と気づいた時点では、それはまだ「道」の途中なんです。
 成道とは、答えが出たわけじゃありません。もし答えをつかむことが解決だとすれば、あとはただ、それを維持すればいいことになる。そうなったら、停滞でしょう。
 人生は坂道を自転車で上っているようなもので、漕ぎ止めたら自分というものが現成(げんじょう)しなくなる。つまり自己が成り立たないわけです。
 自分を現成させ、立ち上げさせるには、常に他者との関わりのなかで他者に応じ続けていかなければいけない。それは、疑問や矛盾をかかえたまま生きていくということでもあります。
 問題があって、それを解決するということではなく、「道」とは、どこまでも続くものです。終わりはないのです。
 ブッダは、亡くなる前に「おのおの怠らず精進せよ」と言いました。それは結局、仏道とは自分で歩み、発見し続けていくしかないということです。
 道というのは、私が歩くから道になるんです。あらかじめ道があるのではない。わが身をもって歩くから、道なんです。
 自分の足で歩かないと道は始まらないんですね。
 ですから、成道とは、「歩き続けよう」という決意、覚悟ともいえます。
 歩くことで、景色は変わり続け、関係そのものも変化していきます。その関わりのなかに、自己があらわれ、すべてが生まれてくる。
 そして、たどり着くべき目的地は分からなくてもいい。
 道とは、「これでいいんだ」という安住の地ではないんです。「常に今、途中にいる」という自覚が大切なんです。
 ただ、「道が見えた」ということは大きなことです。
 お釈迦さまには、人生を通貫するような道が見えたのだと思います。
 それまで、ずーっと来た歩みが無駄じゃなかったと確信したときに見えた道―。
 誰もが歩く道ではない、あらかじめ道としてあるわけでもない。けれども、私が歩くことで道になっていく。その道が見えたということです。
 だからこそ、「犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩む」という覚悟が生まれていくわけです。
 そのお釈迦さまの覚悟に思いをはせて、自ら歩むことの大切さを確かめるのが成道会なのだと思います。

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