 |
| 「ダーナ」(DANA) 佼成出版社 7月20日 2008年 summer 平成20年|夏号 |
(11)………行雲流水 |
諸行は無常なり、とお釈迦さまはとらえました。では、どう生きればいいのか、と言えば、「雲や水のごとくに」です。つまり、「行雲流水」は生き方の提案なんです。
修行僧を雲水といいますが、これは空を絶えず動いていく雲と、流れゆく水のように滞らないということです。
一方、世間の中で生きていると滞らざるを得ません。
それは「思い」があるからです。いろいろなことを体験し、それを思いにまで膨らませるのは、良いことのように思ってしまうかもしれませんが、そのことで心の本来の力がなくなってしまうのです。
本来、諸行無常なんです。私も世界も変わり続けているわけです。
しかし、何かを考えることは、変わり続けている対象を止(と)めて考えているということです。いわば流れている水をすくって観察するようなものです。
そのときに知的な頭の働き方が始まる。けれども、それは不自然なことなんです。
お釈迦さまは、定住することなく行脚し続けました。定住するとは、何かを所有することであり、「所有する」ということは、守らなければいけないものができるということです。守らなければいけないものを捨てて出家したのに、再び守らなければならないものができることにお釈迦さまは抵抗がありました。
しかし、弟子の養成のために定期的に定住する場所として竹林精舎、祇園精舎の寄進を受け容れました。そして、お釈迦さまの教団では定期的に精舎に集まることになって、「行雲流水」と一定期間の「定住」(=安居)が繰り返されていくわけです。
この「流動」と「止住」は、もともと人間の中で自然なものとして同居しています。
私たちは何も考えないで世の中の流れと一体になって変化していくときもあれば、そういう自己の行ないを立ち止まって省みるときもある。その両方を本来欲しているんです。
しかし、変わらないものや帰る場所を求める欲求は忘れませんが、忘れがちなのは「変化」「流動」のほうなんですね。だから禅では「行雲流水」を生き方としてすすめるわけです。
この世は常に変化してとどまらないのですから、自分というものも常に変化していかなければいけない、いや、実際に変化しているわけですが、それをそのまま認識しなくてはいけないんです。
言い換えれば、あらかじめ私というものがあるのではなくて、変わり続ける世界とかかわることで私が「現成する」、いわば、その場だけの私が絶え間なく「立ち上がる」わけです。
「あれは素晴らしかったな」と言ったって、それはそのとき限りなんです。次のときは状況が変わっているわけですから、また一から出直さなければいけない。この出直しを面倒くさいと思うから、マニュアルにしてしまおうという発想になるわけです。
「行雲流水」とは、一言で言えば「自由」です。
仏教語としての自由という言葉は、禅が使いだしたものです。六祖慧能(ろくえそのう)が「自由自在」という言葉を初めて使うんです。それまでは、勝手気まま、という意味でしかありませんでした。
六祖が言う自由自在とは、自在に変化できるということなんです。しかし、「私にはそんなことはできない」などと「私」のイメージを固定してしまうと、自在な変化ができなくなるわけです。
「私」というのは、相手とのかかわりのなかで、その時その場だけに現成するものです。あらゆる状況と相手に応じる力が「自由」であり、最も大切なことなのです。
ものごとは、あらかじめ決めなくていいんです。「こういうときはどうするか」などということは、その時その場で考えればいいんです。
計画というのは過去に立てたものです。そのときには見えなかった状況が、今あるはずです。そうしたら、今あるすべての状況を俯瞰(ふかん)した上で、あらためて計画を修正しなくてはいけない。刻一刻その修正を惜しまないことが大切なのです。
そもそも雲にも水にも「思い」なんてないんです。状況に応じて流れていくだけです。ある意味でものすごく不自由なことです。雲が「あっちに行きたい」といっても無理なわけです。完全に「わが思い」がない。しかしこの雲のように「思い」がない状態でこそ、じつはほんとうの「私」が立ち上がるわけです。
あらゆる状況に完全に応じられるというのは自由だからこそ可能なんです。
どんな状況にも完全に応じられること―。それが、「行雲流水」ということですね。 |
|