書評『アミターバ−無量光明』
「週刊読書人」国書刊行会 2003年7月4日号
03-5
文/小林 広

 かつて幸田露伴は仏教の教えに基づいた「風流仏」を創作するに際し、言文一致ではない「文章」体に依拠して表現したのだが、今同じ宗教体験について創作するとしたら、表現はどうなるのだろうか。その困難なところに挑んだ作品である。
 物語は語り手である老女が、ガンで入院し、娘と娘婿の寺住職や息子、弟、医師らに見守られて、ついに死に至るというものであるが、地獄、極楽、三途の川、あるいは、アインシュタインの理論、ドッペルゲンガー現象などが話題になっている。たとえば、なぜ先に逝っている夫が突然迎えに現れたのか、と問うと、この世界とは次元が違う時空間である量子という目に見えない世界が、別な時空間に移動するのではないか、と説明している。
 問題は後半である。死が近づきもうほとんど意識がない、そして死者となった身から後片付けをする遺族について語っていくのだが、この箇所はざまざまな疑問がついてくるであろう。一方でもうほとんど意識がないとか、逝去後で存在していないといっているのに、他方でどうして、語ることができるのか、と。しかし、語ることができるのか、というのなら、より根本を見つめて、いったい、語るとはどういうことなのか、つまり、そもそも小説を語るとはどういうことなのか、と問うべきではないか。
 そういった問いは冒頭から始まっている。ここで彼女はしっかりとした意識で、今見た不思議な光景もさしたる意味のない夢なのだと思った、と言っているが、そのさりげない言い方は、多くの場合われわれが日頃さしたる意味のない夢=小説に囲まれて生きているところからくるのであろう。多くの人はおそらく、夢も小説も意味があってもそんなに重要な意味をもっている、とは言えないにちがいない。ところがここから彼女は現実か夢かといった境界を渉猟し、しだいに夢のリアリティーを強調してくる。それどころか、最後には現実より夢の方が信頼できる、ということになってくるのである。であれば小説もまた、同じであろう。小説とは、確かに現実ではない。現実になることはついにありえない虚の世界であって、紙の上だけの現実である。にもかかわらず、現実以上の現実となって迫力をもって現前することがときにはあるのではないか? この小説が迫っているのは、この一点にほかならない。
 たとえば、結婚もせずひたすら仕事に打ち込んできた会社が破産し絶望し、無口で他人に言えない思いをもっていた息子が、教会のボランティア活動を手伝っていたとき「怖いくらい静かに見えてた山とか川とか、街も人もまた元気に動いているって思えた」、花がちゃんと自分たちのことを見ている、と生きる喜びに浸って、急に饒舌に語り出し、キリストの復活と同じように自らの魂が復活したといっている。また葬式のとき彼女は、「人生の雄大さ」ということを発見した感動を生き生きと語っている。息子も彼女も、ともに宗教的感慨が起きる奇跡の一瞬を語っているのだ。そんな一瞬があると、読者は果たして、信じられようか―。とすれば、小説創作が果たすべきことはやはり同じであって、そういった宗教的感慨に非常に近いところで、いや、というよりも、宗教と小説といった差異など考えられぬところで、ひたすら「復活」を願って語りつづけるべきなのである。
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「北海道新聞」北海道新聞社 2003年6月8日号
03-4
文/川村 湊

 世の中には宗教小説というものがある。「アミターバ」もある意味では宗教小説であり、仏教小説であるだろう。現役僧侶の作家が書き、その題名「アミターバ」は無量光明の意味であり、阿弥陀如来の名前そのものである。だが、これは仏教という宗教へと人を誘ってゆくものではない。ここで描かれているのは、仏教的な臨終観、そして極楽浄土への往生の有様(ありよう)に近いものだが、そうした「往生」の方法を教導するものではないからだ。
 古来、往生伝、往生集が日本ではよく書かれた。この書もそうした往生伝の一種と考えてよいかもしれない。八十歳になろうとする老女(お母さん=私)が末期ガンで入院している。娘の小夜子、娘婿の慈雲がその老女の看護、介護をしている。老女の意識は混濁して、過去や現在を行き来する。往時の戦争に出征して戦死した前の夫の文幸。その前夫の一人息子で幼時に手放した哲、再婚同士の「お父さん」、その間にできた小夜子と前妻の子である富雄。こうした死者や生者に取り囲まれて、老女は臨終を迎えるのである。
 一人の人間の臨終、葬儀の様子が、その死者の側の視点から描かれる。これはちょっと珍しい試みといえるだろう。SFかコミックになってしまいそうな、そんな死者の視点を、しかし作者はきわめて真面目に描いている。むろん、微(かす)かなユーモア精神も忘れずに。
 ここでは、「死」とは「たましい」が身体を離れることであり、それは光明に包まれるということだと、力強く言い切られている。仏教の本質的な考えは、死を恐怖し、その恐怖を克服することではなく、死を光明として、浄土への往生として”積極的”に受け入れることだ(もちろん、これは自死などを意味しはしない)。八十年という一人の老女の生涯を回顧しながら、よく生きたものこそ、よく死ぬものであることを示している。これがまさに宗教小説であり、仏教小説であるゆえんなのである。
Copyright2003 The Hokkaido Shimbun Press.

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