書評『リーラ 神の庭の遊戯』

「朝日新聞」夕刊 2004年9月29日
04-7
 約3万4000人という史上最多の自殺者が出ているなか、僧侶で作家の玄侑宗久さんが発表した自殺をめぐる小説『リーラ 神の庭の遊戯』(新潮社)が注目されている。仏教思想に基づく「答え」の提示ではなく、息苦しい世界観を超えていく体験として読むことができる。
 物語は飛鳥という女性の自殺を、母、弟、ストーカーなど6人の視点から描き出していく。「残された人たちは、なぜ、と自責の念を抱えて理詰めに考えてしまう。しかし、6人の視点がばらばらなように、どれか一つが決定的な理由ではないはずです」
 6人のそれぞれずれた視線をたどることで、しだいに読み手は6人を超えた「神の視線」を感じるようになる。「いいことも、悪いことも、うち寄せる波のようなもの。波に身を任せるのか、波に対抗しようとするのか、その波のなかで遊ぶのがリーラ(遊戯)だと思います」
 玄侑さんは『禅的生活』(ちくま新書)など仏教の入門書も書いているが、「小説を書くということは、一つの宗教や宗派に収まらない体験です。入門書では思考の跡を示しますが、小説はたった今生まれてきたものを書き留めていく。ことばの呪縛から逃れようと、次々にことばをはいていく、それが小説であり、小説を読むことは体験なのです」と話す。
 『リーラ』では、共時性、輪廻思想、暗在系など、ニューエイジ・ムーブメントの中で注目された思想や、ヨガ、コーヒー浣腸などの流行も総動員されている。
 「人生に基本はありません。常に二度と同じことがない応用を生きている。それは小説も同じ。基本を捨てるということは、リーラの世界に行くということです」
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「毎日新聞」東京朝刊 2004年9月19日
今週の本棚、本と人
04-6
文/内藤 麻里子

 rela自殺とは何かを問い、残された人々の再生を描いた書き下ろし長編小説。23歳の女性・飛鳥の自殺から3年、整体師の弟、死を受け入れられない母親、ストーカーだった男ら6人の視点から彼女がどう生きたかが語られる。
 「6人の目線をらせん状に重ねることで初めて自殺が描けると考えました。いくつもの目線がつながるのは、神の視線に近づくことだと思う。神の視線そのものにはならないが、らせんの真ん中に残った空洞が『神の庭』。人間の論理が通じる世界ではない」。
 弟は、なぜ姉が自殺したのか疑問を持つ。ストーカーにつきまとわれたらしいがそれだけではなさそうだ。自殺した日は歯医者の予約を入れていたのに―。
 「論理的に自殺を究明するのは限界がある。先生にしかられ、帰宅したら両親がけんかしていて、窓を開けると誰かが殴られる光景を目にしてしまい……。理屈ではなく、こんな共時的出来事が続いた結果、自殺を思い詰めることもある。結婚を決めることだってあるかもしれない。描きたかったのは私たちの生活にあふれているこの共時性」
 共時性は、飛鳥の死だけでなく、弟も母親もストーカー男も、彼女の死を受け入れようとする中で起きてくる。「波のように押し寄せる共時的出来事に、もう少し身をゆだねてもいいのでは、と思う」。
 共時性という言葉を作中の登場人物に「リーラ」と表現させた。<ヨーガではね、この宇宙がどうしてできたかって訊かれたら『リーラ』って答えるの。神さまのリーラ。(中略)たいていは『遊戯』って訳されるんだけど>。玄侑さんはこうも言う。「あらがって立ち尽くそうとするから波にさらわれる。ご縁に従い波乗りをすればいい」
 共時性といい、リーラというのは、仏教でいう「縁起」のことなのだ。物事はすべて関係性の中にある。
 臨済宗の僧侶として、子供に自殺された人たちの姿に接してきた。「ここにはその方たちに言ってあげたいことが凝縮されています」どこか読む者の肩の荷を下ろさせてくれる小説だ。
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